第58話:逆転の子守唄と、お姫様の献身
「……んんっ」
身体の節々が熱く、頭の奥で鈍い痛みが脈打つ。
俺は熱で重い瞼をゆっくりと開けた。
窓の外はすっかり暗くなっており、寝室にはオレンジ色の間接照明だけが点灯している。
「あ……湊くん、目覚めた?」
視線を横に向けると、ベッドのすぐ脇にパイプ椅子を引き寄せて座っている奏羽の姿があった。
彼女は俺の額に乗せていた冷えピタをそっと剥がし、新しいものに貼り替えてくれる。
「……奏羽、ずっとここにいたのか?」
「うん。熱、まだ高いみたいだね。……苦しい?」
「少し、頭が痛いかな。でも、だいぶ楽になったよ」
俺が弱々しく微笑むと、奏羽はホッとしたように息を吐き、俺の布団から出ている右手を両手でぎゅっと包み込んだ。
彼女の手はひんやりとしていて、熱を持った俺の身体にはたまらなく心地よかった。
「……ごめんね、湊くん。わたしがお母様との約束なんてしちゃったから、湊くんに無理させちゃって……」
「お前のせいじゃない。俺が勝手に限界を超えようとしただけだ。……それに、零さんのスパルタも、俺を特進クラスに入れるためだからな」
「でも……」
奏羽は眉を下げ、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめた。
いつもは俺が彼女を寝かしつけ、安心させる側だった。だから、俺がこうして弱っている姿を見せるのは、彼女にとって初めてのことだ。
「……湊くん。いつも、わたしが眠れない時、湊くんがお話読んでくれたよね」
「あぁ。俺の声しか、取り柄がないからな」
「そんなことないよ! 湊くんの全部が、わたしのお守りだもん」
奏羽は強く首を振り、パイプ椅子から立ち上がった。
「……だから、今日はわたしが……湊くんを安心させてあげる」
「え?」
奏羽は俺が寝ているシングルベッドの縁に、そっと腰を下ろした。
そして、仰向けになっている俺の頭の横に両手をつき、覗き込むように顔を近づけてきた。
「……なっ、奏羽!?」
「しーっ。病人はおとなしくしてるの。……今日はわたしが、湊くんを甘やかしてあげる日なんだから」
彼女はそう言うと、俺の頭の下にそっと自分の腕を差し込み、少しだけ俺の上半身を引き寄せるようにして、自分の身体に密着させた。
俺の頭が彼女の胸元近くに寄せられ、ふわりと、あの甘いシャンプーの香りが鼻腔を満たす。
「……お前、こんなことしたら風邪うつるぞ……」
「うつってもいいもん。……それに、湊くんがわたしの頭撫でてくれる時、いつもこんな感じでしょ?」
奏羽の空いた方の手が、俺の熱を持った前髪を優しく梳いていく。
その感触は、驚くほど優しくて、俺の頭痛を少しずつ溶かしていくようだった。
「……湊くん、目を閉じて」
「……」
俺が大人しく目を閉じると、至近距離から、とても透き通った、オルゴールのような声が降ってきた。
「——『ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていた……』」
「……っ」
俺は驚いて目を開けそうになった。
それは、図書室で俺がいつも彼女に読み聞かせていた、宮沢賢治の童話の冒頭だった。
「『桔梗いろの空から、銀河の底まで、光の粒が……』」
奏羽の声は、普段の少しポヤポヤした話し方とは違い、とても静かで、心地よい一定のリズムを刻んでいた。
俺の低い声が彼女を安心させていたように、彼女の鈴を転がすような高く澄んだ声もまた、熱で弱った俺の脳に、不思議なほどの安らぎを与えてくれる。
(……なんだ、これ)
俺は、彼女の体温と、指先の優しい感触、そしてその美しい声に包まれながら、完全に抗う力を失っていた。
「『どこまでもどこまでも、一緒に行こう……』」
奏羽は物語を諳んじながら、時折、俺の頬や額を愛おしそうに撫でる。
看病という大義名分を得た彼女は、普段は俺が恥ずかしがって止めるような至近距離でのスキンシップを、思う存分に楽しんでいるようだった。
「……奏羽、お前、その本、全部暗記したのか?」
俺が目を閉じたまま小声で尋ねると、彼女の指の動きがピタリと止まった。
「……うん。湊くんの声と一緒に、ずっと頭の中で繰り返してたから。……湊くんがいない時も、このお話を思い出すと、少しだけ安心できたの」
「そっか……」
「だからね。……今度は、わたしが湊くんの『安心』になる番だよ」
彼女の言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなった。
いつも守ってばかりだと思っていた彼女が、いつの間にかこんなにも強く、そして優しく成長していたのだ。
「……ありがとう、奏羽。すごく、落ち着く……」
俺がポツリと本音をこぼすと、奏羽は嬉しそうに「えへへ」と笑い、俺の額にそっと、とても柔らかいキスを落とした。
「……早く良くなってね、わたしの湊くん。……朝まで、ずっとこうしててあげるから」
熱でぼんやりとした意識の中、俺は彼女の優しい子守唄に耳を傾けながら、今までで一番深く、甘い眠りへと落ちていった。
看病される側になって初めて知った、彼女の声の破壊力と、その深い愛情。
俺たちの同棲生活は、お互いの弱さを補い合いながら、さらに確かな絆へと変わろうとしていた。




