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第57話:プール特訓の代償と、密室の看病

「……はぁっ、はぁっ……!」


屋内市民プール。

零が指定した「クロール一キロ」という地獄のノルマを、俺は気力だけでなんとか泳ぎ切った。

プールサイドに這い上がった瞬間、全身の筋肉が悲鳴を上げ、肺が酸素を求めて激しく上下する。


「……湊くん! お疲れ様っ!」


ゴール地点で待っていた奏羽が、俺の元へ駆け寄り、ふわりと香るバスタオルを頭から被せてくれた。


「……死ぬかと思った……」

「よく頑張りましたね、風森さん。予想タイムより三分遅れですが、まあ及第点といったところでしょう」


水の中から上がってきた零は、息一つ切らしていない。

彼女のストイックな競泳水着姿から水滴が滴り落ちる様は、まるでアスリートのようだった。


「……一条副会長、体力おばけですか……」

「生徒会の業務をこなすには、これくらいの体力は必須です。……さて、これで身体の余分な力が抜け、夜の勉強に極限まで集中できるはずです。一度帰宅し、夕食後に補習を再開しますよ」


零は冷たく言い放ち、更衣室へと向かっていった。


「湊くん、本当にすごいよ! わたし、ずっと見てたから!」

「あぁ……奏羽の応援があったからな」


俺が濡れた髪を拭きながら笑いかけると、奏羽はパァッと顔を輝かせ、周囲の目も気にせずに俺の腕にギュッとしがみついてきた。


「……ねえ、湊くん。約束のご褒美、帰ったら……いっぱいあげるね?」

「……っ!」


水着姿の彼女の柔らかな感触と、耳元で囁かれる甘い言葉。

疲労困憊の身体に、理性を削り取るダイレクトアタックが直撃する。

俺は顔から火が出るかと思い、慌てて視線を逸らした。


 * * *


マンションに帰宅し、夕食を済ませた夜八時。

リビングのテーブルには、再び分厚い参考書と問題集が山積みになっていた。


「……では、数学の応用問題から始めます」

「はい……」


零の容赦ない指示に、俺はシャーペンを握った。

だが、プールの疲労がピークに達しており、文字が上手く頭に入ってこない。

腕は鉛のように重く、まぶたが勝手に落ちてきそうになる。


「風森さん。手が止まっていますよ。集中力が切れるのが早すぎます」

「……すみません」


俺が頬を叩いて気合を入れ直そうとした、その時だった。


「……零。湊くん、顔色が悪いよ」


隣で俺の様子を見ていた奏羽が、不安そうに声を上げた。


「……気のせいでしょう。体力を使った分、脳に血が回っていないだけです」

「違うもん! 湊くん、熱があるみたい……!」


奏羽が俺のおでこにそっと手を当てる。

その冷たくて柔らかい手の感触が、異様に気持ちよく感じられた。


「……本当だ。すごい熱……」

「えっ?」


俺自身は全く自覚がなかったが、言われてみれば身体の芯が熱く、関節が軋むように痛む。

プールの疲労と、連日の寝不足、そして過度なプレッシャーが、一気に身体にのしかかってきたのだろう。


「……風森さん。無理は禁物です。今日はここまでにして、すぐに休みなさい」


零の氷のような声に、微かな焦りが混じっていた。

彼女も、自分のスパルタが俺を追い込んでしまったことに責任を感じているのかもしれない。


「すみません……。少し、横になります……」

「湊くん、わたしがベッドまで連れて行くから!」


奏羽に肩を貸してもらい、俺はフラフラとした足取りで寝室のベッドに倒れ込んだ。


「……零、今日はもう帰って。わたしが湊くんの看病するから」

「……わかりました。明日の補習は休みにします。……会長、彼を頼みましたよ」


零はそう言い残し、静かに玄関のドアを閉めた。


寝室には、俺と奏羽の二人だけが残された。

熱で朦朧とする意識の中、奏羽が甲斐甲斐しく動き回る気配がする。


「湊くん、冷えピタ貼るね。……ごめんね、わたしがもっと早く気づいてあげられれば……」

「奏羽……お前は悪くない。俺が、不甲斐ないだけで……」

「そんなことない! 湊くんは、わたしのためにこんなに頑張ってくれてるのに……!」


奏羽は涙声になりながら、俺のおでこに冷たいシートを貼ってくれた。

以前の「冷えピタ右目事件」の時とは違い、今回は完璧な位置に貼られている。

同棲生活の中で、彼女のポンコツ具合も少しずつ成長しているらしい。


「……湊くん。苦しくない? 何か欲しいものある?」

「いや……お前がそばにいてくれるだけで、十分だ」


俺が弱々しく微笑むと、奏羽はベッドの脇に座り込み、俺の手を両手でぎゅっと握りしめた。


「……わたしが、湊くんを治してあげる。……ずっと、そばにいるから」


彼女の冷たい手が、熱を持った俺の身体に心地よく伝わってくる。


「……奏羽」

「ん?」

「ご褒美……まだもらってない」

「えっ……」


熱のせいか、俺の口から思わず本音が漏れてしまった。

奏羽は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふにゃりと、優しくて甘い笑顔を浮かべた。


「……しょうがないなぁ。湊くんの甘えん坊」


彼女はベッドに身を乗り出し、俺の顔を覗き込んだ。

そして、熱い吐息と共に、その柔らかい唇を俺のおでこに、そして頬に、最後に唇に、そっと落とした。


「……んっ」


風邪をうつしてはいけないと思い、俺が顔を背けようとするのを、奏羽は許さなかった。

彼女の両手が俺の頬を包み込み、深く、甘いキスを繰り返す。


「……これで、早く元気になってね。……わたしの、大事な湊くん」


熱で朦朧とする意識の中、俺は彼女の甘いご褒美と、献身的な看病に包まれながら、深い眠りへと落ちていった。

地獄の夏期講習の代償は大きかったが、この密室での看病は、どんな薬よりも俺の心と身体を癒してくれていた。


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