第52話:氷の教育係と、奇妙な朝食の風景
「……はぁ」
玄関のドアを開けると、そこには分厚い参考書と問題集を両手に抱え、冷気すら纏っているかのような一条副会長(零)が立っていた。
夏休み初日の朝八時。この時間から他人の家に押し掛けてくるというだけでも十分に非常識だが、彼女の表情には「凪瀬夫人からの絶対命令を遂行する」という使命感しか見えない。
「おはようございます、一条副会長。……まさか、毎日来られるおつもりで?」
「当然です。夫人から『奏羽の学力を維持させつつ、風森を十位以内に引き上げろ』という至上命題を下されていますからね。……さあ、中へ」
零は俺の返事も待たずに、ズカズカと廊下を歩き、リビングへと向かった。
そして、その扉を開けた瞬間。
「……っ!?」
リビングのダイニングテーブルに座っていた奏羽の姿を見て、零の足がピタリと止まった。
もこもこのルームウェア。その上に、俺の少し大きめのエプロン。
どう見ても「新婚の朝」というシチュエーションを具現化したような、破壊力抜群の格好だ。
「……会長」
零の声が、さらに一段階冷たくなった。
「その、風紀を乱すにも程がある格好は一体何ですか。……貴女は、自分が生徒会長だという自覚を完全に失ってしまったのですか」
「れ、零! 違うの、これは朝ごはんを作るために……っ」
奏羽は顔を真っ赤にして立ち上がり、エプロンの裾を必死に引っ張って太ももを隠そうとするが、かえって不自然さが際立ってしまっている。
「言い訳は無用です。……風森さん」
「はいっ!」
零の鋭い視線が俺を射抜いた。
「貴方は、彼女にこんな格好をさせて、鼻の下を伸ばしていたわけですね。……夫人からの『仮採用』を、都合のいい免罪符だと勘違いしているようですが、私がいる限り、貴方たちの堕落した生活は許しませんよ」
「だ、堕落なんてしてません! 俺はただ、作ってもらった朝飯を食ってただけで……」
「なら、さっさと着替えてきなさい、会長。勉強の邪魔です」
零の氷のような一言に、奏羽は「はーい……」としょんぼりと肩を落とし、洗面所へと逃げ込んでいった。
リビングには、俺と零の二人が残された。
気まずい沈黙が流れる中、零は持参した参考書の束をダイニングテーブルにドサッと置いた。
そして、テーブルの上に残されていた、俺と奏羽が食べていたパンケーキの皿に視線を落とした。
「……会長が、これを?」
「あ、はい。……目玉焼きもまともに作れなかったのに、俺のために練習してくれたみたいで」
俺が少しだけ誇らしげに答えると、零は小さく鼻で笑った。
「……あの子が、料理を。信じられませんね」
零の言葉には、皮肉や棘ではなく、純粋な驚きと、ほんの少しの……寂しさが混じっているように聞こえた。
「……一条副会長は、奏羽さんと付き合いが長いんですか?」
「ええ。中等部の頃からです。……彼女が『完璧な凪瀬奏羽』という仮面を被り始めた頃から、ずっと彼女の右腕として、彼女を守ってきたつもりでした」
零は、パンケーキの皿を見つめたまま、ぽつりとこぼした。
「彼女は不器用で、プレッシャーに弱くて……だからこそ、私が彼女の代わりに全ての障害を排除しなければならなかった。……彼女に料理などという『隙』を見せるような真似は、私が絶対に許さなかったはずです」
「……」
「ですが」
零は眼鏡を押し上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。
「貴方が現れてから、彼女は変わりました。……私の管理下から外れ、こうして他人のために不格好な料理を作るようになり、そして……あれほど恐れていた夜を、克服しつつある」
それは、零にとっての敗北宣言のようでもあり、同時に、長年の親友の成長を喜ぶ親のようでもあった。
「……俺は、彼女を変えたつもりはありません。ただ、彼女が安心して眠れるように、隣にいるだけです」
「ええ、分かっています。……だからこそ、私は貴方を『利用』することにしたのです。夫人を納得させるための、特効薬としてね」
零の口角が、僅かに上がった。
「……え?」
「夫人が突きつけた『学年十位以内』という条件。……あれは、貴方を排除するための罠ですが、同時に、彼女自身が『奏羽に相応しい人間』を見極めるための試金石でもあります。……もし貴方がそれを乗り越えれば、彼女はもう二度と、夫人の言いなりになる必要はなくなる」
零の言葉の意味を理解し、俺は息を呑んだ。
つまり、零は凪瀬夫人の手先としてここに来たわけではない。
奏羽を「完璧な令嬢」の呪縛から完全に解放するために、俺を十位以内に押し上げようとする、強力な味方(スパルタ教師)としてやってきたのだ。
「……一条副会長。貴女は、本当に奏羽さんのことが大切なんですね」
俺がそう言うと、零はフンと鼻を鳴らした。
「勘違いしないでください。私はあくまで、生徒会の秩序を乱すノイズを管理しているだけです。……さあ、無駄話は終わりです。会長が着替えてくるまでに、昨日の過去問の復習を始めますよ」
零が参考書を開いたその時、洗面所から着替えを終えた奏羽が戻ってきた。
見慣れた夏服のブラウスとスカート姿だ。
「……湊くん、零、お待たせ!」
「遅いですよ、会長。……さあ、席につきなさい。地獄の夏期講習の始まりです」
氷の教育係と、恋する生徒会長、そして平凡な図書委員。
奇妙な三角関係のまま、俺たちの過酷で甘い夏休みが、本格的に幕を開けた。




