第53話:地獄の夏期講習と、ご褒美の前借り
「……風森さん。ここの因数分解、また途中式を省いていますね。特進クラスの連中なら、こんな横着をしてケアレスミスを誘発するような真似は絶対にしませんよ」
「す、すみません……」
夏休みの同棲初日。
俺のマンションのリビングは、クーラーが効いているはずなのに、一条副会長(零)から放たれる氷のようなプレッシャーで、体感温度がさらに数度下がっているように感じられた。
零が持ち込んだ分厚い問題集の山。
それは、特進Sクラスの生徒たちが夏休みにこなすという、質も量も一般クラスの比ではない代物だった。
朝の九時から始まり、昼食を挟んで午後三時。俺の脳みそはすでに限界を迎えつつあった。
「湊くん、お茶淹れたよ。冷たいのと温かいの、どっちがいい?」
「あ、ありがとう、奏羽。冷たい麦茶で頼む」
キッチンから戻ってきた奏羽が、グラスを俺の前にコトリと置いた。
彼女は自分の分の課題(特進クラスでもトップレベルの難易度)を涼しい顔で終わらせており、今は完全に俺の「お世話係」と化している。
「……会長。あまり甘やかさないでください。彼が十位以内に入れなければ、貴女は二学期から海外の全寮制学校行きですよ」
零が眼鏡の奥から鋭い視線を送ると、奏羽は「わかってるもん」と少しだけ唇を尖らせた。
「でも、湊くん、朝からずっと頑張ってるんだよ? 少しは休憩させてあげないと、頭がパンクしちゃう」
「パンクする前に限界を超えるのが、特進クラスの常識です。……さあ、次の英語の長文読解、制限時間は二十分です。始めなさい」
容赦のない零の指示に、俺は涙目になりながら再びシャーペンを握った。
* * *
「……はい、そこまで」
時計の針が夕方の六時を回った頃、ようやく零から終了の合図が出された。
俺は机に突っ伏し、深い、深いため息を吐き出した。
「……死ぬかと思った……」
「お疲れ様です。初日にしては、まあまあ食らいついてきましたね。……このペースなら、二ヶ月後のテストで奇跡が起きる確率が、0.1パーセントくらいには上がったかもしれません」
零はそう言って問題集を片付け始めた。
0.1パーセント。それが彼女なりの最大限の褒め言葉なのだろう。
「……零、今日はこれで終わり?」
「ええ。今日は初日ですから、この辺りにしておきましょう。……私はこれで失礼します。明日の朝も、九時に来ますからね」
零は鞄を持ち上げると、玄関へと向かった。
俺と奏羽も慌てて見送りに立つ。
「一条副会長、一日ありがとうございました」
「……風森さん。私が帰った後、変な気を起こして勉強をサボらないように。……会長の貞操も、しっかり守りなさいよ」
「えっ!?」
零は最後に爆弾発言を投下し、冷たく笑ってドアの向こうへと消えていった。
残された俺と奏羽は、顔を見合わせて顔を真っ赤にした。
「……あ、あのね、湊くん」
「ん?」
沈黙を破ったのは、奏羽だった。
彼女はモジモジとスカートの裾を握りしめ、上目遣いで俺を見上げてきた。
「今日、一日ずっと……すごく頑張ってたよね。零のスパルタ、きつかったでしょ?」
「まぁな。でも、お前のためだと思えば、これくらい……」
「だからね」
奏羽は一歩、俺に近づいた。
ふわりと、甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「……約束の『ご褒美』、前借りしてもいい?」
「え?」
「あのね、期末テストが終わった時……わたし、『終わったらご褒美ちょうだいね』って言ったでしょ?」
俺はハッとした。
確かに、合同交流会議でのスピーチ前、そして期末テストに向けて勉強していた時、彼女はそう口にしていた。しかし、結果は十一位という惜敗に終わり、凪瀬夫人の乱入などで有耶無耶になっていたのだ。
「今日一日、頑張った湊くんに……わたしからの、ご褒美」
彼女は背伸びをして、俺の首に腕を回した。
そして、俺が止める間もなく、その柔らかい唇を俺の唇に重ねた。
「……んっ」
昨夜の、雷に怯えてすがりつくような触れ合いとは違う。
それは、一日中「氷の監視者」の目を気にして我慢していた彼女の、「甘えたい」という感情が爆発したような、熱くて、深いキスだった。
俺の脳がショートしそうになる。
「……ふぁ……湊くん……」
唇を離すと、奏羽はトロンとした瞳で俺を見つめ、俺の胸に顔を埋めた。
「……えへへ。これで、明日も頑張れるよね?」
「……お前なぁ。そんなご褒美の前借りされたら、俺の理性が明日まで持たないぞ」
俺が苦笑いしながら彼女の腰を抱き寄せると、奏羽は「だめ?」と小悪魔のように微笑んだ。
氷の生徒会長の面影は、俺の部屋の中では完全に溶け去っている。
「……だめじゃない。でも、これ以上は……俺が我慢できなくなるから、夕飯の準備するぞ」
「むー。湊くんの意気地なし」
むくれる奏羽の頭を撫でながら、俺はキッチンへと向かった。
地獄の夏期講習と、理性を削り取る甘い同棲生活。
俺たちの過酷で幸せな夏休みは、まだ始まったばかりだった。




