第50話:暗闇の子守唄と、世界最強の睡眠導入剤
——ピカッ! ガラガラドシャァンッ!!
「ひゃあぁっ……!」
停電した暗闇のリビング。
窓の外で閃光が走り、腹の底に響くような雷鳴が轟くたびに、俺の腕の中で奏羽がビクッと小さな肩を震わせる。
「……怖いっ、湊くん、暗い……っ」
彼女は俺のパーカーの胸元を両手で死に物狂いで握りしめ、顔を押し付けていた。
不眠症で「夜の静寂」にすら怯えていた彼女にとって、この雷雨と停電のコンボは、恐怖の限界をはるかに超えているはずだ。
「大丈夫だ、奏羽。俺がここにいるから」
俺は彼女の細い背中を、一定のリズムで優しく叩き続けた。
スマホのライトを探そうにも、彼女がここまで強くしがみついていると身動きが取れない。
——ゴロゴロ……。
雷はまだ遠ざかる気配を見せない。
奏羽の呼吸は浅く、過呼吸気味になっている。このままでは、またパニックを起こしてしまう。
(……どうすれば、彼女を安心させられる?)
俺は暗闇の中で必死に思考を巡らせた。
そして、思い出した。
あの日、旧校舎の図書室の奥で、プレッシャーと不眠で限界を迎えていた彼女を、初めて眠りへと導いた「魔法」を。
「……奏羽」
「んぅ……っ、こわい……」
「雷の音、聞かなくていい。目を閉じて、俺の声だけを聞いててくれ」
俺は、できるだけ低く、ゆっくりとしたトーンで話し始めた。
手元に本はない。だから、俺の記憶の中にある、彼女が一番安心するであろう物語を紡ぐしかなかった。
「——『ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていた……』」
「……あ」
俺の声が響いた瞬間、奏羽の震えがピタリと止まった。
「『桔梗いろの空から、銀河の底まで、光の粒が……』」
それは、図書室で俺が初めて彼女に読み聞かせた、宮沢賢治の童話だった。
暗闇と雷の轟音を打ち消すように、俺の低く穏やかな声だけを、彼女の耳元へ直接届けるように囁く。
「『どこまでもどこまでも、一緒に行こう。ああ、マジェランの星雲だ……』」
俺は背中を叩く手を止めず、彼女のサラサラとした髪をゆっくりと撫でた。
「……湊くんの、声……」
奏羽が、俺の胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
その声からは、先ほどまでの恐怖の響きがすっと抜け落ちていた。
「……うん。湊くんの声、聞こえる……」
「ああ。雷の音より、俺の声に集中しろ」
俺は記憶の糸を手繰り寄せながら、ゆっくりと物語を語り続けた。
最初は強張っていた奏羽の身体が、俺の声のリズムに同調するように、少しずつ脱力していくのがわかった。
彼女の浅かった呼吸が、深く、規則正しいものへと変わっていく。
「『さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために……』」
十分ほど語り続けた頃だろうか。
雷の音は少し遠退き、雨音だけが静かに窓を叩いていた。
「……奏羽?」
返事はない。
俺の胸元に寄りかかった彼女から、静かな、そして完全に安心しきった寝息が聞こえ始めていた。
「……寝たか」
俺は小さく息を吐き、暗闇の中で彼女の寝顔を想像して微笑んだ。
学園の誰もが憧れる、完璧でミステリアスな孤高の生徒会長。
でも、俺の腕の中で眠る彼女は、雷に怯え、俺の声がないと安心できない、どうしようもなく不器用な女の子だ。
(……さて、この体勢からどうやってベッドに運ぶかな)
完全に脱力して俺に体重を預けている奏羽。
俺は彼女を起こさないように、そっと彼女の膝裏と背中に腕を回し、お姫様抱っこの体勢で立ち上がった。
暗闇の中、手探りで客間のベッドへと向かう。
そっとシーツの上に下ろすと、奏羽は「ん……湊くん、いかないで……」と寝言を漏らし、俺のパジャマの袖をぎゅっと掴んできた。
「……行かないよ。朝までここにいるから」
俺は彼女の隣に腰を下ろし、その小さな手を握り返した。
同棲初日の夜。
予期せぬ雷雨と停電は、俺に改めて教えてくれた。
俺の声が彼女にとってどれほど特別で、彼女の存在が俺にとってどれほど愛おしいものなのかを。
窓の外では雨が降り続いているが、俺たちの空間だけは、どんな嵐にも乱されない、絶対的な安らぎに満ちていた。




