第48話:凪瀬家への凱旋(?)と、お嬢様の荷造り
放課後。
俺と奏羽は、スーパーで夕飯の買い出しを済ませた後、彼女の実家である凪瀬家へと向かっていた。
「……湊くん、重くない?」
「これくらい平気だよ。お前の荷物もあるんだし、体力温存しとけ」
俺の両手には、パンパンに膨らんだエコバッグが二つ。
一方の奏羽は、俺の制服の袖口を両手でしっかりと握りしめ、少しだけ小走りで隣を歩いている。
夏の日差しが傾き始めた住宅街を、こうして二人で歩いていると、本当に「新婚夫婦の買い出し」みたいで、俺は無意識に顔をニヤけさせてしまっていた。
やがて、見覚えのある重厚な鉄の門が見えてきた。
以前、ここで凪瀬夫人から「二度と敷居を跨ぐな」と完全拒絶を食らい、その数日後には「仮採用」をもぎ取った、因縁の場所だ。
「……着いたな」
「うん。……お母様、いるかな」
奏羽は少しだけ緊張した面持ちで、インターホンを押した。
『——はい』
スピーカーから聞こえてきたのは、冷たく澄んだ凪瀬夫人の声だった。
「お母様、奏羽です。夏休み中の荷物を取りに来ました」
『……入りなさい』
ギィィ、と重々しい音を立てて門が開く。
俺は小さく深呼吸をして、奏羽と共に敷地内へと足を踏み入れた。
* * *
通されたのは、前回と同じ、広すぎるリビングだった。
革張りのソファには凪瀬夫人が腰掛けており、手元のタブレットで何かの資料に目を通している。
「失礼します」
俺が頭を下げると、夫人はタブレットから視線を外し、俺と奏羽の「繋がれた手(袖口)」を冷ややかに一瞥した。
「……荷物を取りに来たそうですね。奏羽、自分の部屋で準備をしなさい。風森さんは、そこで待っていなさい」
「はい、お母様。……湊くん、ちょっと待っててね」
奏羽は俺に小さく手を振り、二階の自分の部屋へと小走りで向かっていった。
リビングには、俺と凪瀬夫人の二人が残された。
気まずい沈黙が流れる。
夫人は再びタブレットに視線を戻し、俺の存在など気にも留めていない様子だ。
(……怒ってるわけじゃないよな。一応、仮採用中だし)
俺が内心で冷や汗をかいていると、不意に夫人が口を開いた。
「風森さん」
「は、はい」
「二学期の中間テストまで、約二ヶ月。……貴方は本気で、特進Sクラスの牙城を崩せると思っているのですか?」
その声は、相変わらず冷たかったが、以前のような「見下す」響きは消えていた。
純粋に、俺の覚悟を問うているような、そんな響きだった。
「はい。……簡単じゃないことは分かっています。でも、俺には奏羽がついていますから」
「……彼女が家庭教師をしたところで、本人の地頭の限界というものがあります。貴方の過去の成績データを見る限り、論理的思考力が決定的に不足している」
「痛いところを突かれますね……。でも、俺、ここ数週間で数学の偏差値がかなり上がったんですよ。……奏羽が、俺のために寝る間を惜しんで、専用のノートを作ってくれたおかげで」
俺がそう答えると、夫人の手がピタリと止まった。
「……奏羽が、貴方のためにノートを?」
「はい。特進クラスの過去問を分析して、俺がよく間違えるパターンの解説を、手書きでびっしりと……。あんなに俺のことを考えてくれている彼女を、海外になんて行かせられません」
俺は、夫人の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……彼女は、俺が守ります。だから、見ていてください」
俺の言葉に、夫人はしばらく無言だった。
やがて、短く息を吐き、タブレットをテーブルに置いた。
「……好きになさい。ですが、結果が出なければ容赦はしませんよ」
その時だった。
「湊くーん! 荷物、まとまったよー!」
二階から、ドタドタという足音と共に、奏羽が降りてきた。
その手には、巨大なキャリーケースが二つ、さらにボストンバッグが一つ握られている。
「おいおい……お前、それ全部持っていく気か!?」
「だって、夏服とか水着とか、お気に入りのぬいぐるみとか、色々入れたらこんなになっちゃった」
奏羽は「えへへ」と笑いながら、重そうなキャリーケースを引きずってくる。
俺のマンションのクローゼットのキャパシティを完全に無視した、お嬢様特有の荷物の多さだ。
「……奏羽。貴女は遊びに行くのではありませんよ。風森さんの勉強の邪魔にならないようにしなさい」
夫人が呆れたように注意すると、奏羽は「はーい」と元気よく返事をした。
「大丈夫だよ、お母様! わたし、湊くんの勉強はビシバシ鍛えるから! ……それに、夜はわたしが湊くんの『お世話』をするから、邪魔になんてならないもん!」
「お、お世話って……っ! お前、お母さんの前で変なこと言うな!」
俺が慌てて顔を赤くしてツッコミを入れると、凪瀬夫人はこめかみを押さえ、深いため息をついた。
「……もう行きなさい。見ているだけで頭が痛くなります」
「はーい! 行こ、湊くん!」
奏羽は俺にキャリーケースの一つを押し付け、もう一つのキャリーを引きながら、意気揚々と玄関へと向かった。
俺は両手にエコバッグとキャリーケースという、完全に「荷物持ち」の状態で、凪瀬夫人に深く一礼した。
「失礼いたします。……夏休み明け、必ず良い報告に伺います」
「……ええ。期待せずに待っています」
重厚な門をくぐり、再び住宅街の道に出る。
夕日が完全に沈み、空が群青色に染まり始めていた。
「……なんか、お母様、少し優しくなった気がする」
「気のせいだろ。俺は冷や汗かきっぱなしだったぞ」
俺が苦笑いすると、奏羽は「ふふっ」と笑い、キャリーケースを引く俺の腕に、ギュッと身を寄せてきた。
「ねえ、湊くん」
「ん?」
「……今日の夕飯、オムライスじゃなくて、やっぱりハンバーグにしない? 湊くんの好きなやつ」
「おっ、いいな。でも、作るのは俺だぞ?」
「むー。じゃあ、わたしはサラダ作る! 包丁の練習、いっぱいしたんだから!」
何気ない、夕飯の相談。
これが俺たちの「日常」になっていくのだという実感が、俺の心にじんわりと温かく広がっていった。
過酷な夏休みの始まり。だが、隣で笑う彼女がいれば、どんな試練も乗り越えられる。
俺は彼女の細い肩を引き寄せ、二人の「家」へと歩みを進めた。




