第44話:決戦の火蓋と、消えたシュシュ
ついに、期末テスト初日の朝を迎えた。
いつもなら憂鬱でしかないテスト期間だが、今回の俺には、かつてないほどの緊張と闘志が満ちていた。
「……湊くん、おはよう」
「おはよう、奏羽」
マンションのリビング。俺が顔を洗って戻ると、すでに制服に着替えた奏羽が、ダイニングテーブルに座って参考書を開いていた。
彼女の顔には、いつものようなポヤポヤした寝起きの甘えはない。
「氷の生徒会長」として、そして学年トップを死守する者としての、凛とした空気を纏っていた。
「……調子はどお?」
「ああ。昨日の夜、最後に詰め込んだ公式も頭に入ってる。あとは、本番でテンパらないことだな」
俺が答えると、奏羽は参考書を閉じ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。湊くんは、わたしが太鼓判を押すくらい頑張ったんだもん。……それに、本番でテンパりそうになったら、これを思い出して」
奏羽は立ち上がり、俺の元へ歩み寄ると、自分の右手首を俺の目の前に差し出した。
そこには、あの合同交流会議の時に俺が貸した、紺色のシュシュが巻かれていた。
「湊くんの匂いがする、わたしのお守り。……テスト中、わたしはずっとこれを身につけてるから。湊くんも、問題用紙に向かってる時は『わたしが隣にいる』って思ってね?」
「……お守り、か。わかった」
俺は彼女の細い手首に巻かれたシュシュをそっと撫でた。
俺の声や匂いが、彼女に力を与えるように。彼女の存在もまた、今の俺にとっては最大の原動力だ。
「……じゃあ、行こうか。俺たちの戦場へ」
「うんっ!」
俺たちは並んでマンションを出て、学園へと向かった。
当然のように俺の袖を掴んで歩く彼女に、すれ違う生徒たちがざわめくが、今日の俺たちにそんなノイズを気にしている余裕はなかった。
* * *
一時間目。数学。
問題用紙が配られ、チャイムが鳴り響く。
俺は深呼吸をして、問題に目を落とした。
(……よし。見たことのある問題だ。零さんの地獄のドリルでやらされたパターンだ)
俺は心の中でガッツポーズをし、シャーペンを走らせた。
奏羽と毎晩遅くまで取り組んだ応用問題。零が容赦なく突きつけてきた特進クラスの過去問。
それらの記憶が、俺の手を淀みなく動かしていく。
プレッシャーで頭が真っ白になることもない。奏羽の「わたしが隣にいると思ってね」という言葉が、不思議と心を落ち着かせてくれた。
順調にテストをこなし、三日間の日程はあっという間に最終日を迎えた。
最後の科目、現代文の終了のチャイムが鳴った瞬間、俺は机に突っ伏して大きく息を吐いた。
「……終わった……」
全身の力が抜け、泥のような疲労感が襲ってくる。
手応えは……悪くない。いや、今までで一番良いかもしれない。
ケアレスミスには細心の注意を払ったし、応用問題も空欄は作らなかった。
あとは、結果を待つだけだ。
「湊ー! お疲れ! お前、今回のテスト期間中、完全にゾンビみたいな顔してたぞ!」
陸が俺の席にやってきて、バンバンと背中を叩いてきた。
「ああ……。今回は、絶対に負けられない理由があったからな」
「はっはーん。愛の力ってやつか? まぁ、あんな美人な会長が毎日お泊まりして勉強教えてくれるなら、俺だって死ぬ気でやるわ」
陸がニヤニヤと笑うのを適当にあしらいながら、俺はスマホを取り出した。
奏羽に『終わったな。手応えはどうだった?』とメッセージを送ろうとした、その時だった。
「——風森さん」
教室の入り口に、冷たい声が響いた。
顔を上げると、そこには一条副会長(零)が立っていた。
彼女の表情は、いつもの冷静沈着なそれではなく、少しだけ……焦っているように見えた。
「零さん? どうしたんですか、そんな怖い顔して」
「……会長が、いなくなりました」
「……は?」
俺は立ち上がり、陸も驚いて固まった。
「いなくなったって、どういうことですか? さっきまでテスト受けてたはずじゃ……」
「テスト終了直後、彼女は自分の席に荷物を置いたまま、どこかへ行ってしまったんです。……生徒会室にも、図書室にもいません」
零は、俺の前に歩み寄り、声を潜めた。
「問題なのは、彼女が『何かを探している』ように見えたということです。……彼女のクラスメイトによれば、テスト中に彼女が落とした『紺色のシュシュ』を、誰かが間違えて持って行ってしまったらしいのです」
「シュシュ……っ!」
俺の心臓が、嫌な音を立ててドクンと跳ねた。
あのシュシュは、奏羽にとってただのヘアゴムじゃない。俺との絆の証であり、彼女の精神安定剤、絶対的な『お守り』だ。
それを失くしたとなれば、彼女がどれほどパニックに陥るか、想像に難くない。
「……心当たりは、ありますか?」
「心当たりって……いや、俺のシュシュだってことは知ってますけど……」
俺が混乱していると、零はさらに衝撃的な事実を告げた。
「……先ほど、冴木 洵が特進クラスの教室にいなかった、という情報が入りました」
「冴木……!?」
「ええ。彼がシュシュを盗んだと断定はできません。しかし、彼女を動揺させるために、何かを仕掛けた可能性は高い」
俺は弾かれたように教室を飛び出した。
「おい湊! どこ行くんだ!」という陸の声を背に受けながら、廊下を全力で走る。
奏羽。
俺のお守りを失くして、今頃どこで震えているんだ。
冴木のような冷酷な人間に、彼女が一人で立ち向かっているのだとしたら。
俺は、学園中をくまなく探し回る覚悟で、階段を駆け上がった。
テストは終わったが、俺たちの本当の「試練」は、今まさに始まろうとしていた。




