第4話:秘密と、先輩の微笑み
「風森くん、昨日は遅くまで残ってくれてありがとうね」
翌日の放課後。
図書委員の当番でカウンターに入った俺に、先輩の柚原 栞が穏やかな声で労いの言葉をかけてくれた。
彼女はいつも通り、文庫本から顔を上げずに、貸出カードの整理をしている。
「いえ、俺はただ奥の書架を整理していただけですから」
「そう? でも、なんだか奥の方から、風森くんの話し声が聞こえたような気がしたのよね」
「……っ!」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「昨日は……その、本の内容を確認するために、少し声に出して読んでいただけです」
「ふふっ、そう。宮沢賢治の童話集、良いわよね」
柚原先輩は、薄い唇の端をほんの少しだけ持ち上げて笑った。
彼女の目は、文庫本の活字ではなく、俺の顔を——正確には、俺の右の袖口をじっと見つめているように感じた。
昨日、凪瀬さんが強く握りしめていたせいで、アイロンをかけたものの少しだけシワが残ってしまった袖口を。
「……何か、ついてますか?」
「ううん、何でもないわ。ただ、風森くんの声は低くて落ち着くから、朗読にはぴったりだなって思っただけよ」
柚原先輩はそれ以上追及してこなかった。
けれど、彼女のその意味深な微笑みから察するに、十中八九、昨日の俺と凪瀬さんのやり取りに気づいているのだろう。
図書室の主のようなこの先輩の目を欺くことなど、そもそも土台無理な話だったのかもしれない。
「柚原先輩は、誰にも言いませんよね?」
「ええ、もちろん。図書室での出来事は、図書委員だけの秘密よ。……特に、迷える小鳥さんのことはね」
迷える小鳥。
それは間違いなく、不眠症で苦しむ孤高の美少女、凪瀬奏羽のことを指している。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、柚原先輩は満足そうに頷き、再び文庫本へと視線を戻した。
* * *
「……遅かったね、湊くん」
奥の書架に向かうと、今日はすでに凪瀬さんが待っていた。
俺の姿を見つけるなり、彼女はホッとしたように小さく息を吐き、昨日と同じように壁際にちょこんと座り込む。
そして、当然のように自分の隣のスペースを空け、俺を見上げてきた。
「柚原先輩と少し話をしててな。待たせた」
「ううん。……それより、早く」
凪瀬さんは、催促するように俺の制服の袖口を、ツンツンと引っ張った。
昨日の「無意識」とは違い、今日は明らかに「確信犯」だ。
「わかった、わかったから引っ張るな。今日はどの本がいい?」
「……湊くんの声なら、なんでもいい」
ミステリアスで無口なはずの彼女が、俺にだけ見せるこの我儘な姿。
俺は苦笑いしながら、適当な小説を手に取り、彼女の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、今日はこれな」
「……うん」
俺が本を開くと同時に、凪瀬さんは昨日と同じように、俺の右肩にこつんと頭を預けてきた。
そして、迷うことなく俺の右の袖口を、両手でぎゅっと握りしめる。
それが彼女にとって、一番安心できる「入眠の儀式」なのだろう。
「『——ある日、男は古い時計台の……』」
静かな図書室の奥。
俺の低い声と、凪瀬さんの規則正しい寝息だけが響く。
(……このままだと、俺の右袖は常にシワくちゃだな)
そんなことを思いながらも、俺は彼女の小さな手を振り払うことなく、ただ静かに物語を紡ぎ続けた。
彼女が安心して眠れるように。
この平穏な時間が、一日でも長く続くように。
カウンターの方からは、柚原先輩がページをめくる音が、微かに聞こえていた。
誰も知らない、けれど誰かが見守ってくれている、そんな秘密の時間。
俺の肩で眠る凪瀬さんの寝顔は、昨日よりも少しだけ、穏やかで幸せそうに見えた。




