第3話:無自覚なぬくもりと、真っ赤な耳たぶ
静まり返った放課後の図書室。
カウンターの奥、誰の目にも触れない死角で、俺の右肩にはミステリアスな黒髪美少女の頭が乗っている。
「……すぅ、すぅ」
凪瀬奏羽は、完全に夢の中にいた。
俺の制服の袖をぎゅっと握りしめたまま、微かな寝息を立てている。窓から差し込む西日が、彼女の長く美しいまつ毛に影を落としていた。
(……そろそろ小一時間か)
正直に言うと、同じ姿勢で固まっていたため、右肩が少し痺れてきた。
けれど、何日もまともに眠れず、限界まで張り詰めていた彼女の顔にようやく戻った血色を見ると、とてもじゃないが起こす気にはなれない。
俺はそっと、手元の宮沢賢治の童話集を閉じた。
本を読まなくても、俺の体温と静かな呼吸音が伝わっているせいか、彼女は起きる気配を見せない。
「……んっ」
しばらくして、凪瀬さんの肩がピクリと跳ねた。
ゆっくりと、吸い込まれるような黒い瞳が開かれる。
寝起きの彼女は、状況をうまく把握できていないようで、ぽやんとした顔で何度か瞬きをした。
そして、自分の顔のすぐ横に俺の首筋があること、自分が俺の肩に体重を預けていること、さらに——自分の両手が、俺の袖口を死守するように握りしめていることに気づいた。
「——っ!?」
声にならない悲鳴を上げたのだろう。
凪瀬さんは弾かれたように体を起こすと、床をズルズルと後ずさりして、本棚に背中を打ち付けた。
「お、おはよう。よく眠れたか?」
俺がなるべくいつも通りの平坦な声で尋ねると、凪瀬さんは両手で自分の口元を覆い、ふるふると首を横に振った。
「わ、わたしっ……その……っ」
普段の「孤高の美少女」の面影はどこにもない。
白磁のような肌は、首の先から耳の裏まで茹でダコのように真っ赤に染まっている。
大きな瞳は潤み、完全にパニックを起こしていた。
「風森くんの、肩……っ、袖も……わたし、無意識に……っ」
「気にするな。相当疲れてたんだろ。それに、俺は別に嫌じゃなかったし」
「いやじゃ、ない……?」
凪瀬さんが、おずおずと俺の顔を見上げる。
俺は小さく頷いて、しびれた右肩を軽く回した。
「ああ。誰にも頼れなくて一人で苦しむより、俺の袖くらいで安心して眠れるなら、安いもんだろ」
俺の言葉を聞いた凪瀬さんは、覆っていた手をゆっくりと下ろした。
真っ赤な顔のまま、少しだけ唇を噛む。
「……重く、なかった?」
「本三冊分くらいかな」
「それ、重いよ……」
シュンと肩を落とす姿が、なんだか小動物みたいで可笑しかった。
ミステリアスで近寄りがたいなんて、一体誰が言い出したんだか。こんなに分かりやすくて、不器用な女の子なのに。
「ごめんなさい……風森くん、痛かったよね」
「大丈夫だって。ほら、そろそろ下校時刻だ。柚原先輩も閉める準備をしてる頃だし」
俺が立ち上がり、手を差し出すと。
凪瀬さんは一瞬躊躇った後、その小さくて冷たい手で、俺の手をそっと握り返してきた。
ひっぱり上げてやると、彼女は俺の制服の袖口を指差し、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……シワ、なっちゃった」
確かに、彼女が力一杯握りしめていた俺の右の袖口は、くしゃくしゃになっている。
「これくらい、洗濯すれば元通りだ」
「でも……」
「なら、明日もアイロンがけが必要なくらい、しっかり握ってればいい」
俺が冗談めかしてそう言うと、凪瀬さんはハッとして顔を上げた。
「……あしたも、いいの?」
「凪瀬さんが、まだ俺の声が必要なら」
彼女は、何かを堪えるようにぎゅっと両手を胸の前で握りしめた。
そして、消え入りそうな、けれど確かな声で紡いだ。
「……風森くんの声がないと、たぶん、今日……また、眠れなくなっちゃう」
それは、彼女なりの精一杯の甘えだったのだと思う。
「わかった。じゃあ、また明日の放課後な」
「……うん」
図書室を出る直前。
凪瀬さんは振り返り、俺に向けて、ほんの少しだけ——昨日よりもはっきりと、花が綻ぶような微かな微笑みを見せた。
「ありがとう……湊、くん」
名前。
初めて名前で呼ばれた俺は、急に心臓の音がうるさくなったのを誤魔化すように、ただ小さく手を振り返すことしかできなかった。
俺と彼女の、放課後の秘密の時間。
それはただの「不眠症の治療」から、少しずつ、お互いにとって特別なものへと変わり始めていた。




