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第2話:孤高の美少女は、不器用に袖を掴む

「いやー、やっぱ凪瀬さんって別次元の生き物だよな。歩く芸術品っていうかさ」


昼休みの廊下。

隣を歩く親友の時野(ときの) (りく)が、すれ違ったばかりの黒髪の少女の背中を見送りながら、ほうっとため息をついた。


凪瀬 奏羽。

彼女が廊下を歩くだけで、周囲の空気がピンと張り詰めるような気がする。誰もがその美しさに目を奪われつつも、近寄りがたいオーラに気圧されて声をかけられない。

現に今も、彼女は誰とも言葉を交わすことなく、静かに自分のクラスへと消えていった。


「あんな美人でミステリアスだと、逆に誰も告白できないよなー。誰にもなびかない孤高の氷の美少女。……ま、俺らみたいな平民には一生縁のない存在だけど」

「……そうだな」


陸の言葉に適当に相槌を打ちながら、俺は内心で少しだけ罪悪感に苛まれていた。


——『明日も……私を、眠らせて……?』


昨日の放課後、俺の制服の袖を掴んで、潤んだ瞳で見上げてきた彼女の顔が脳裏をよぎる。

あの無防備で、不器用で、年相応の女の子らしい姿を知っているのは、世界中で俺だけだ。

それを陸に言えるはずもなく、俺はただ苦笑いを浮かべて誤魔化した。


 * * *


放課後。

俺は図書委員の当番のため、旧校舎にある図書室へと向かった。

カウンターには、すでに一つ上の先輩である柚原(ゆずはら) (しおり)が座って文庫本を読んでいた。


「お疲れ様、風森くん」

「お疲れ様です、柚原先輩。今日の作業は——」

「昨日の続きで、奥の書架の整理をお願いできるかしら。私はこっちの貸出処理をしておくから」

「わかりました」


落ち着いた声で指示を出す柚原先輩に一礼し、俺は図書室の一番奥へと向かった。

そこは背の高い本棚に囲まれていて、カウンターからは死角になる場所だ。


「……あ」


指定された書架に向かうと、そこにはすでに先客がいた。

凪瀬さんだ。


彼女は床に直に座ることはせず、窓際の壁に寄りかかるようにして立っていた。手には本を持っておらず、どうやら俺が来るのを待っていたらしい。


「待たせたな。体調は大丈夫か?」


俺が小声で尋ねると、凪瀬さんは小さくコクンと頷いた。

そして、少し躊躇うように視線を彷徨わせた後、自分の鞄からごそごそと何かを取り出した。


「これ……」


差し出されたのは、温かいミルクティーのペットボトルだった。


「風森くん。昨日、ずっと……本、読んでくれたから。喉、渇いたかなって……」

「俺に? ありがとう、丁度甘いものが飲みたかったんだ」


俺がミルクティーを受け取ると、凪瀬さんはホッとしたように小さく息を吐き、ほんの少しだけ——本当に、気づかないくらい微かに——口元を綻ばせた。

無口で表情の変化が乏しい彼女が、懸命に俺への感謝を伝えようとしてくれたのが分かって、なんだかくすぐったい気持ちになる。


「それじゃあ、今日も読もうか。昨日の続きでいいか?」

「……うん」


俺が本棚から宮沢賢治の童話集を引き抜いて床に座ると、凪瀬さんも少し離れた隣に、ちょこんと体育座りをした。


「『……どこまでもどこまでも、一緒に行こう。ああ、マジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために……』」


静寂に包まれた空間に、俺の朗読する声だけが落ちていく。

今日は昨日よりも距離が近いせいか、凪瀬さんから微かに甘いシャンプーの香りが漂ってきた。


チラリと横目で様子を窺うと、凪瀬さんは膝に顔を埋めるようにして目を閉じている。

そして、五分ほど読み進めた頃だった。


——こつん。


「えっ」


俺の右肩に、柔らかな重みが乗った。

驚いて声が出そうになるのを、慌てて飲み込む。


凪瀬さんが、俺の肩に頭を預けて、スヤスヤと規則正しい寝息を立てていたのだ。

完全に脱力しきっている。昨日あれだけ「人がいるところは嫌だ」と警戒していたのに、たった一日でここまで警戒心を解いてしまうとは。


(……無防備すぎるだろ)


学園の連中がこの光景を見たら、暴動が起きるかもしれない。

少し困惑しつつも、起こさないように肩の力を抜いた時——俺は、もう一つの事実に気がついた。


俺の右腕の制服の袖口。

そこを、凪瀬さんの白い指先が、ぎゅっと強く握りしめていたのだ。


まるで、迷子になった子供が親の服の裾を掴むように。

安心を手放さないように、しがみつくように。


「……たく」


ミステリアスで孤高の美少女なんて、一体誰が言ったんだ。

俺の肩で眠るこの少女は、ただただ不器用で、放っておけないくらい寂しがり屋じゃないか。


「……おやすみ、凪瀬さん」


袖を掴む彼女の小さな手を振り払うことなんてできるはずもなく。

俺は彼女が目を覚ますまでの間、肩の心地よい重みを感じながら、少しだけ声を潜めて童話を読み続けた。


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