第1話:凪瀬さんは、目を閉じられない
凪瀬 奏羽という少女を一言で表すなら、「静謐」という言葉が一番似合うと思う。
腰まで届く艶やかな黒髪に、白磁のように透き通る肌。
誰もが息を呑むほど整った容姿を持ちながら、彼女は常に無口でミステリアスだった。
自分から多くを語ることはなく、休み時間も一人で静かに文庫本を開いている。同級生たちは彼女を「孤高の美少女」と呼び、半ば恐れ多いものとして遠巻きにしていた。
平凡な図書委員である俺、風森 湊にとっても、彼女は「毎日放課後に図書室へやってくる、綺麗な客の一人」でしかなかった。
——その日、彼女の『秘密』を知るまでは。
「……っ」
放課後の、薄暗い旧校舎の図書室。
書架の奥で本を整理していた俺の耳に、微かな衣擦れの音が届いた。
振り返ると、死角になった本棚の影で、凪瀬さんが床にへたり込んでいた。
「凪瀬さん!? 大丈夫か?」
慌てて駆け寄った俺は、彼女の顔を見て息を呑んだ。
いつもは人形のように美しい顔が、ひどく青ざめている。目の下には、彼女の美貌をもってしても隠しきれない深いクマがあった。
浅い呼吸を繰り返し、その細い指先が微かに震えている。
「保健室に行こう。立てるか?」
俺が手を伸ばすと、凪瀬さんは弱々しく首を横に振った。
「……だめ」
「でも、ひどい顔色だぞ」
「……人がいるところ、いや。ここが、いい……」
消え入るような声。
彼女はそう言って、本棚に背を預けて目を閉じた。
しかし、数秒もしないうちに「はっ」と息を呑んで目を見開く。何かに酷く怯えているようだった。
「……もしかして、ずっと眠れてないのか?」
俺の言葉に、凪瀬さんの肩がビクッと跳ねた。
彼女は図星を突かれたように、少しだけ視線を逸らす。
「俺、カウンターから見てて不思議だったんだ。凪瀬さん、いつも難しい本を広げてるけど、全然ページをめくってない。……活字を追ってたんじゃなくて、必死に『起きていよう』としてたんだな」
凪瀬さんは、痛いところを突かれた子供のように、ぎゅっと自分の膝を抱え込んだ。
「……夜が、こわい」
ポツリと、彼女が初めてこぼした弱音。
「目を閉じると、色んな不安が頭の中でぐるぐる回って……息ができなくなるの。もう三日、まともに寝てない。……体が、言うこときかなくて」
ミステリアスで孤高。それは彼女の表向きの顔に過ぎなかった。
本当の彼女は、夜の孤独に怯え、どうやって眠ればいいのかすら分からなくなってしまった、ひどく不器用な女の子だったのだ。
限界なのだろう。
凪瀬さんの体がぐらりと傾き、俺は慌ててその細い肩を受け止めた。
「凪瀬さん!」
意識が混濁しているのか、彼女は俺の制服の胸元を力なく掴み、荒い息を繰り返している。それでも目を閉じようとしない。休むことを脳が拒絶しているみたいだ。
このままじゃ倒れてしまう。
俺は彼女の背中をゆっくりと一定のリズムで叩きながら、近くにあった本を手に取った。
宮沢賢治の童話集だ。
「……風森、くん……?」
「いいから、目を閉じて、俺の声だけを聞いててくれ」
俺は、できるだけ低く、ゆっくりとしたトーンで本を読み上げ始めた。
俺には取り柄なんてない。でも昔から、夜泣きする妹を寝かしつける時だけは「兄ちゃんの声は安心する」と重宝されていた。
「——『ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていた……』」
静寂に包まれた図書室に、俺の低い声だけが響く。
「『桔梗いろの空から、銀河の底まで、光の粒が……』」
最初は強張っていた凪瀬さんの体が、朗読が進むにつれて、少しずつ、少しずつ脱力していくのがわかった。
俺の胸元を握りしめていた指先の力が抜け、こわばっていた彼女の表情が和らいでいく。
五分ほど経った頃だろうか。
俺の胸元に寄りかかった彼女から、規則正しい、静かな寝息が聞こえ始めた。
「……寝たか」
窓から差し込む夕日が、彼女の安らかな寝顔を照らしている。
その顔は「ミステリアスな美少女」ではなく、ただの年相応の、あどけない女の子のものだった。
俺は彼女が起きるまでの一時間、その微かな甘い匂いと小さな寝息を感じながら、静かに本を読み続けた。
* * *
「……んっ」
目を覚ました凪瀬さんは、自分が俺にもたれかかって熟睡していたことに気づき、パチクリと目を瞬かせた。
そして、状況を理解した途端、白い頬をほんのりと赤く染める。
「……ごめんなさい。私、すごく重かった、よね」
「いや、全然。それより、久しぶりに寝られたみたいでよかったよ」
俺が立ち上がろうとすると、凪瀬さんが慌てたように俺の制服の袖をちょこんと掴んだ。
「あ……」
「ん? どうした?」
彼女は少し俯き、恥ずかしそうに、けれど縋るような目で俺を見上げた。
その瞳は少し潤んでいて、普段のクールな印象からは想像もつかないほど弱々しかった。
「風森くんの、声……。すごく、安心した。……魔法みたい」
「そうか。それはよかった」
「その……すごく、わがままなのは、わかってるんだけど」
凪瀬さんは、ぎゅっと俺の袖を握りしめた。
「明日も……私を、眠らせて……?」
ミステリアスで孤高の美少女が、俺にだけ見せたSOS。
「……わかった。放課後、この図書室の奥で待ってるよ」
それが、俺と凪瀬さんの秘密の始まりだった。
この時はまだ、ただの「不眠症の美少女」と「朗読係の図書委員」という関係でしかなかった。
まさかここから、彼女が俺の隣じゃないと生きられないくらい甘えたがりになり、数え切れないほどの放課後や季節を重ねた末に、俺たちがお互いにとって「たった一人の特別な存在」になるなんて——
この時の俺たちは、まだ知る由もなかった。




