第37話:決別の朝と、交わされた約束
「……わたしはもう、お母様の言う『完璧なお人形』には戻らない。……わたしは、湊くんの隣でしか、息ができないの!」
奏羽の絞り出すような、けれど力強い叫びが、朝のマンションの廊下に響き渡った。
俺の前に立ちはだかる彼女の背中は、小刻みに震えている。
これまでずっと逆らうことのなかった絶対的な存在——母親に対して、彼女は人生で初めて明確な反旗を翻したのだ。
「奏羽……貴女、自分が何を言っているのか分かっているの?」
凪瀬夫人の声は、怒りというよりも、信じられないものを見るような、深い動揺を含んでいた。
彼女の知る「素直で完璧な娘」は、もうどこにもいない。目の前にいるのは、サイズの合わない男物のパーカーを着て、必死に一人の男子生徒を庇う、ただの恋する少女だった。
「分かってる。……お母様が、わたしのために厳しくしてくれていたことは、分かってるよ。でも……わたし、夜になると怖くて、ずっと眠れなかったの。……お母様の期待に応えられなくなるのが、怖くて」
奏羽の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも、湊くんは……わたしが完璧じゃなくても、ダメなところがいっぱいあっても、全部受け止めてくれた。湊くんの声を聞いてる時だけ、わたしは安心して目を閉じられるの。……だから、湊くんから引き離そうとするなら、わたし、家を出る!」
「……っ!」
凪瀬夫人は、言葉を失い、よろけるように一歩後ずさった。
背後のスーツ姿の男たちが慌てて支えようとするが、彼女はそれを手で制した。
娘が、家を出るとまで言い切るほどの強い想いを抱いている。
そして、その原因である不眠症の苦しみに、自分は全く気づいてやれなかった。
母親としてのプライドと愛情が、音を立てて崩れ去っていくのが、俺にも分かった。
「……奥様」
俺は、震える奏羽の肩を後ろからそっと抱き寄せ、凪瀬夫人を真っ直ぐに見据えた。
「奏羽は、俺が絶対に守ります。彼女が安心して眠れるように、俺がずっと隣にいます。……だから、どうか、俺たちのことを認めてください」
俺の言葉は、決してドラマチックなものではなかった。
けれど、今の俺に言える、最大限の誠意だった。
凪瀬夫人は、しばらくの間、俺と奏羽を交互に見つめていた。
その表情からは怒りが消え失せ、代わりに深い疲労と、どこか諦めに似た色が浮かんでいた。
「……風森さん」
夫人が、静かに口を開いた。
「貴方は昨日、『彼女が安らげる場所は自分の隣にしかない』と言いましたね」
「はい」
「……分かりました。警察を呼ぶのは、やめておきます」
その言葉に、俺と奏羽はハッとして顔を見合わせた。
「お母様……!」
「ですが、勘違いしないでください。私はまだ、貴方を認めたわけではありません」
夫人は冷たい声に戻り、俺を鋭く睨みつけた。
「奏羽がそこまで言うのなら、一度だけ、貴方に猶予を与えましょう。……ただし、条件があります」
「条件……?」
「次の期末テスト。奏羽には今まで通り、学年トップの成績を維持させなさい。そして貴方自身は、奏羽の隣に立つに相応しい成績——学年十位以内に入りなさい」
学年十位以内。
俺の普段の成績は、中の上といったところだ。学年トップクラスの連中がひしめく中で、十位以内に入るのは至難の業だ。
「もしそれが達成できなければ、奏羽は海外の全寮制の学校へ転校させます。二度と、貴方とは会わせません」
それは、あまりにも理不尽で、高いハードルだった。
だが、今の俺たちにとって、それは「二度と敷居を跨ぐな」という完全な拒絶から、「条件付きの保留」へと引き出せた、大きな一歩だった。
「……分かりました。その条件、受けます」
「湊くん!?」
「絶対に、俺も奏羽も、条件をクリアしてみせます。だから、それまでは……彼女の放課後と休日を、俺にください」
俺がはっきりと宣言すると、凪瀬夫人はフッと短く息を吐いた。
「……せいぜい、足掻いてみなさい」
凪瀬夫人はそれだけ言い残し、背後のスーツの男の一人に顎で合図をした。
男が持っていた紙袋と、見慣れた革製の学生鞄を、無言で俺に差し出す。
「それは奏羽の制服と、学校指定の鞄です。……どうせ、手ぶらで飛び出してきたのでしょう。私の車で連れ帰ろうと思いましたが、今のこの子の顔を見れば、どうせ車内でも貴方のことばかり考えているのでしょうからね。……今日からは、そこから登校しなさい」
夫人は呆れたようにそう言うと、踵を返してエレベーターの方へと歩いていった。
背後の男たちもそれに続く。
嵐が去ったマンションの廊下。
残された俺と奏羽は、渡された荷物を持ったまま、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
「……湊くん」
奏羽が、ゆっくりと振り返り、俺の胸に顔を埋めた。
「……ありがとう。湊くん、すごくかっこよかった……」
「かっこよくなんかないさ。心臓、バクバクだったし。……でも、これで少しは、堂々と一緒にいられる口実ができたな」
俺が彼女の背中を撫でると、奏羽は「うんっ」と力強く頷いた。
そして、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「わたし、絶対に学年トップ取る! 湊くんの勉強も、わたしが全部教えてあげるから!」
「頼もしいな。……じゃあ、まずは着替えて、一緒に学校行くか」
俺が苦笑しながら制服の入った紙袋と学生鞄を渡すと、奏羽はハッとして自分のパーカーとスウェット姿を見下ろした。
そして、「きゃあっ!」と顔を真っ赤にして、荷物を抱きしめたまま、俺の部屋の中へと逃げ込んだ。
期末テストという新たな試練。
だが、俺たちの絆は、この朝の決別と約束を経て、より一層強固なものになっていた。
勉強という名目の、放課後の甘い特訓が始まる予感に、俺は少しだけ口角を上げた。




