第35話:深夜の逃避行と、押され弱い俺
「……はぁ」
凪瀬家の重厚な門が背後でガチャンと音を立てて閉ざされた瞬間、俺は大きく安堵のため息を吐いた。
あの凪瀬夫人の殺気立った視線。そして、奏羽の「トロトロに蕩けた顔」を見た時の、あの衝撃を受けた表情。
作戦の第一段階である「完璧な娘の幻想を壊す」ことには成功した。
だが、その代償として「二度と敷居を跨ぐな」という完全な出入り禁止令を食らってしまった。
「まぁ、最初から一筋縄でいくとは思ってなかったけどな」
俺は夕暮れの住宅街を歩きながら、スマホを取り出した。
奏羽に連絡したいが、今頃彼女は母親から激しい追及を受けているはずだ。俺からの通知が鳴れば、火に油を注ぐことになるだろう。
今はただ、彼女が「ありのままの自分」を母親の前で否定しないことを祈るしかなかった。
* * *
その日の夜。
時計の針が深夜零時を回った頃。
俺はマンションの自室のベッドの中で、何度目かわからないスマホの画面確認をしていた。
奏羽からの連絡は、まだない。
「……さすがに、スマホ没収とかされてないよな」
不眠症の彼女にとって、夜の孤独は最大の敵だ。もし俺と連絡が取れない状態で一人部屋に閉じ込められているとしたら、パニックを起こしているかもしれない。
不安がピークに達し、着替えて凪瀬家の様子を見に行こうかと本気で考え始めた、その時だった。
——ピンポーン。
深夜の静寂を切り裂くように、マンションのインターホンが鳴った。
「……え?」
こんな時間に誰だ。
両親は海外赴任中で不在だ。セールスにしては非常識すぎるし、まさか凪瀬夫人が怒鳴り込んできたのか?
俺は恐る恐る玄関へ向かい、ドアスコープを覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
「……湊くん、開けて……っ」
ドアの向こうに立っていたのは、涙目で震えている凪瀬奏羽だった。
俺は慌ててチェーンを外し、ドアを開けた。
「奏羽!? お前、なんで俺の家が……」
「湊くんっ……!」
ドンッ、と。
ドアを開けた瞬間、奏羽は俺の胸に勢いよく飛び込んできた。
「ちょっ、お前……!」
「お母様が……湊くんと連絡とっちゃダメって……スマホ、取り上げられちゃって……」
俺の胸に顔を押し付ける奏羽は、肩で荒い息をしていた。
服装は、普段の清楚な私服ではなく、少し大きめのパーカーにスウェットという、完全に「部屋着」のラフな格好。足元はスニーカーのかかとを踏み潰して履いており、家からここまで必死に走ってきたことが窺えた。
「スマホ没収って……まさか、家を抜け出してきたのか!? ていうか、よく俺の家の場所わかったな!?」
「うん……。生徒会の名簿で、前に見たことがあって……ずっと、覚えてたの」
彼女は悪びれる様子もなく、むしろ「会えてよかった」とでも言いたげに、俺のパジャマの胸元をぎゅっと握りしめてきた。
「バカ、こんな夜道に女の子一人で! 危ないだろ!」
「だって……湊くんの声が聞こえないと、心臓がドキドキして、息ができなくて……。お母様の言う『完璧な令嬢』でいようとしたら、わたし、また壊れちゃいそうだったの」
奏羽は俺を真っ直ぐに見上げた。
その表情は、あの日の生徒会室の奥——「わたしを、ダメにして」と懇願してきた時と全く同じ、完全に理性の糸が切れた、限界までトロトロに甘えきった顔だった。
「湊くん……わたし、もう限界。湊くんの声と匂いと体温がないと、ダメになっちゃう……」
「奏羽……」
「だから、今日は……朝まで湊くんの部屋で、一緒に寝る」
彼女は、母親の「完璧」という呪縛から逃れるために、自ら退路を断って俺の部屋に飛び込んできたのだ。
「……わかった。とりあえず、中に入れ」
俺は彼女を部屋に招き入れ、鍵を閉めた。
「でも、明日の朝お前が家にいなくて大騒ぎになったら、確実に俺が誘拐犯だと思われるぞ?」
「大丈夫。わたしが『無理やり押しかけた』って言うから。……それに、お母様に証明したいの。わたしが、湊くんの隣じゃないと生きられないってことを」
奏羽は悪戯っぽく笑うと、迷うことなく俺のベッドの方へと歩いていき、コロンと布団の中に潜り込んだ。
そして、顔だけを出してこちらをポンポンと叩く。
「ほら、湊くんも早く来て。……早く、わたしを安心させて……?」
その潤んだ瞳と、微かに熱を帯びた声。
普段から「押されると弱い」俺にとって、限界突破した彼女からの懇願は、どう抗っても断れるはずがなかった。
「……はぁ。わかったよ。でも、本当に何もしないからな」
「えー? してもいいのに」
「バカ言うな。俺の理性がもたなくなる」
俺はため息をつきながら、ベッドの端に潜り込み、彼女に背を向けるようにして横になった。
しかし、数秒もしないうちに、背中から柔らかな温もりがピタリと張り付いてきた。
「湊くんの背中、あったかい……」
「……奏羽、近すぎるぞ」
「だって、こうしないと安心できないもん……」
奏羽は俺の背中に顔を埋め、俺のパジャマの裾を両手でぎゅっと握りしめた。
それは、図書室でいつも俺の袖を掴んでいるのと同じ、彼女にとっての「命綱」だった。
深夜の密室。
俺たちは、母親への反逆という名の「共犯関係」を結んだ。
(……明日の朝、凪瀬夫人が乗り込んできたら、どうやって土下座しようか)
そんな現実的な恐怖を抱きながらも、俺は背中から伝わる彼女の甘い匂いと、その体温に押し切られるように、ゆっくりと深い眠りへと落ちていった。




