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第34話:氷の女王への謁見と、仕掛けられた罠

放課後。

俺は制服の襟を正し、深く息を吸い込んだ。

目の前には、昨日と同じ、重厚な鉄の門。その向こうには、ラスボスである凪瀬夫人が待ち構えている。


「……湊くん、やっぱりやめない? 今ならまだ引き返せるよ?」


俺の隣で、奏羽が不安そうに俺の袖口を掴んでいる。

彼女の顔は蒼白で、唇は微かに震えていた。


「大丈夫だって。作戦通り、奏羽は俺の後ろで黙っててくれればいい」

「でも……」

「もし、奏羽のお母さんが俺の予想以上にヤバい人だったら、その時はお姫様抱っこで連れ去ってやるから」


俺がわざと軽口を叩くと、奏羽は「も、もう! バカ……!」と顔を真っ赤にして俺の腕を叩いた。

少しだけ、彼女の緊張がほぐれたようだ。


俺は意を決して、インターホンを押した。


『——はい』


スピーカーから聞こえてきたのは、昨日と同じ、冷たく澄んだ女性の声だった。


「突然の訪問、申し訳ありません。風森湊と申します。昨日、娘さんの奏羽さんとご一緒させていただいた者です」

『……何か、御用でしょうか』

「はい。どうしても、奥様にお伝えしたいことがありまして。五分で結構です。お時間をいただけないでしょうか」


俺の丁寧だが、一切引く気のない口調に、相手は少しだけ沈黙した。

受話器の向こうで、ため息が聞こえた気がした。


『……お入りなさい』


ギィィ、と重々しい音を立てて、門が開く。

俺は奏羽の手を一度だけ強く握り、「行ってくる」と短く告げて、一人で門の中へと足を踏み入れた。


 * * *


通されたのは、西洋風の調度品で統一された、広すぎるリビングだった。

革張りのソファに腰掛けるよう促され、俺が座ると、対面のソファに凪瀬夫人が腰を下ろした。

奏羽は、母親の指示通り、少し離れた壁際に氷の人形のように直立している。


「それで、風森さん。私にお話とは、一体何でしょうか」


凪瀬夫人の声には、一切の感情が乗っていなかった。

俺は背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。


「本日は、奏羽さんとの交際を認めていただきたく、参りました」

「……交際?」


凪瀬夫人の眉が、僅かにピクリと動いた。


「聞き間違いでしょうか。貴方のような、どこの馬の骨とも知れない方が、この家の娘と? 冗談もお上手ですこと」

「冗談ではありません。俺は、本気で奏羽さんのことを……」


俺はそこまで言って、わざとらしく言葉を切った。

そして、作戦通り、立ち上がって壁際に立つ奏羽の元へと歩み寄った。


「なっ……! 湊くん!?」


奏羽が驚いて声を上げる。

凪瀬夫人の視線が、ナイフのように俺に突き刺さった。


「風森さん、貴方、何を……」

「奏羽さん。少し疲れたでしょう? 昨日もあまり眠れていないようでしたし」


俺はそう言うと、周囲の空気を一切無視して、奏羽の頭を優しく、ゆっくりと撫でた。

図書室で、いつもやっているように。


「ひゃっ……!?」


奏羽の身体がビクッと跳ね、顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。

その表情は、驚きと、恥ずかしさと、そして俺に触れられる心地よさが混じり合った、トロトロに蕩けた顔だった。


「や、やめ……湊くん、お母様が……見てる……っ」

「大丈夫。すぐに終わるから」


俺は彼女の抵抗を無視して、サラサラの黒髪を指で梳く。

彼女はもう、されるがままに目を閉じ、俺の手に身を委ねていた。


「——そこまでになさいッ!!」


ついに、凪瀬夫人の冷静さが限界を超えた。

彼女は勢いよく立ち上がり、俺を睨みつける。その顔は怒りで歪んでいた。


「貴方、私の娘に何をしているのですか! 無礼にも程があります! 今すぐその汚い手を離しなさい!」


激昂する母親。

その剣幕に、奏羽の肩がビクッと震えた。


(……よし、かかった)


俺は心の中でガッツポーズをした。

作戦の第一段階は成功だ。

俺はゆっくりと奏羽から手を離し、再び凪瀬夫人の前に向き直った。


「失礼いたしました。ですが、ご覧の通りです」

「……何が言いたいのですか」

「俺は、奏羽さんを甘やかすのが得意なんです。貴女が彼女に課してきた『完璧』という鎧を、剥がしてやることだけは、誰にも負けません」


俺は、呆然とこちらを見ている奏羽を指差した。


「今、彼女はどんな顔をしていますか? 貴女の知っている『完璧な娘』の顔ですか?」


凪瀬夫人は、ハッとして娘の顔を見た。

そこには、頬を真っ赤に染め、潤んだ瞳で俺を見つめ、どこか夢見心地な表情を浮かべた、彼女の知らない「ただの女の子」がいた。


「……っ」


凪瀬夫人の表情が、初めて揺らいだ。

怒りでも、軽蔑でもない。純粋な「驚愕」の色。

自分の娘が、あんなにも無防備で、だらしない顔をすることを知らなかったのだ。


「俺が、彼女をこうしました。そして、彼女が本当に安らげる場所は、貴女の言う『責務』の中にはない。……俺の隣にしかないんです」


俺は、凪瀬夫人に対して、堂々と宣戦布告をした。

あなたの作った完璧な人形を、俺が人間にしてやりましたよ、と。


凪瀬夫人は、しばらく黙り込んだまま、俺と娘の顔を交互に見比べていた。

そして、やがて冷たい声で口を開いた。


「……結構です。お帰りなさい」

「ですが……」

「問答無用です。お帰りください。……そして、二度とこの家の敷居を跨ぐことは許しません」


それは、完全な拒絶だった。

だが、俺は少しも落胆しなかった。

彼女の心に、小さな、しかし確かな楔を打ち込むことには成功したのだから。


俺は黙って一礼し、リビングを後にした。

扉が閉まる直前、俺が見たのは、呆然と立ち尽くす奏羽と、その娘の「初めて見る顔」から目が離せないでいる、凪瀬夫人の姿だった。


俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ。


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