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第32話:凪瀬家の「呪縛」と、電話越しの涙

奏羽の母親——凪瀬夫人から放たれた、丁寧だが冷たい拒絶の言葉。

俺はその場を辞した後も、頭からその光景が離れなかった。


『この子は、貴方とは違う世界で、果たさねばならない『責務』がありますので』


あの言葉は、俺と奏羽の間に横たわる、決して無視できない壁の存在を突きつけていた。

完璧な生徒会長。そして、おそらくは名家のお嬢様。

彼女が背負っているものの重さを、俺は改めて思い知らされた。


家に帰り着き、自室のベッドに倒れ込む。

スマホを手に取り、奏羽に『無事に着いたか?』とメッセージを送ろうとして、指が止まった。

今頃、彼女は家であの母親と二人きりなのだ。俺といたことが、彼女の立場を悪くしていないだろうか。


考えれば考えるほど、不安が胸を締め付ける。

俺が彼女の隣にいることが、本当に彼女のためになるのだろうか。

俺が彼女を「ありのまま」にすればするほど、彼女は「凪瀬家の令嬢」という役割から逸脱し、苦しむことになるのではないか。


——ピロン。


その時、スマホが震え、奏羽からメッセージが届いた。


『湊くん、ごめんなさい。お母様が、失礼なことを言って……』

『気にするな。奏羽こそ、大丈夫か? 怒られたりしてないか?』


すぐに既読がつく。だが、そこから返信がしばらく途絶えた。

何かあったのかもしれない。

俺はいてもたってもいられず、通話ボタンを押した。


数コール後、彼女は電話に出た。


「……もしもし、奏羽?」

『……っ、湊、くん……』


電話越しに聞こえてきたのは、押し殺すような、嗚咽交じりの声だった。


「どうした!? やっぱり何か言われたのか!?」

『……ううん、怒られては、ないの。ただ……』


彼女は言葉を詰まらせながら、ゆっくりと話し始めた。


『お母様はね、昔からずっと、わたしに『完璧』であることを求めてきたの。勉強も、習い事も、立ち居振る舞いも……凪瀬家の娘として、誰からも後ろ指をさされないようにって。……それが、わたしのためだって信じてるから』


その声は、ひどく諦めに満ちていた。

それは、長年解けない呪いのように、彼女の心に深く根を張っているのだろう。


『だからね、わたしが最近『変わった』ことも、お母様は気づいてる。……完璧な仮面が剥がれて、感情的になって、誰かに依存していることを……すごく、心配してるの』

「心配……?」

『うん。『風森さんという方に、弱みを握られているのではないか』って。……わたしが、湊くんに恋をしてるなんて、お母様は想像もできないから』


なんて悲しいすれ違いだろうか。

母親は娘を心配するあまり、その心をがんじがらめに縛り付けている。

娘は母親を失望させたくないあまり、本当の気持ちを伝えられずにいる。


『……湊くん。わたし、どうしたらいいのかな。……湊くんと一緒にいたい。でも、お母様を悲しませたくない。……わたし、また、眠れなくなりそう……』


電話の向こうで、彼女の呼吸が少しずつ浅くなっていくのがわかった。

不眠症の悪夢が、再び彼女を飲み込もうとしている。


俺は、ベッドから身を起こした。

そして、できるだけ強く、揺るがない声で言った。


「奏羽。今から、言うことをよく聞け」

『……え?』

「お前の母親が、お前に何を求めていようが関係ない。……俺は、お前が好きだ。ありのままの、不器用で、甘えん坊で、俺がいないと眠れないお前が、どうしようもなく好きなんだ」


まだ、その言葉を伝えるのはずっと先のことだと思っていた。

だが、今言わなければ、彼女は呪縛に負けてしまう。


「……っ!」


電話の向こうで、彼女が息を呑む音が聞こえた。


「だから、お前もお前の気持ちに正直になれ。母親のためじゃない、誰のためでもない、お前自身の幸せのために、どうしたいのかを考えろ。……もし、その答えが『俺の隣にいたい』なら、俺は何度だってお前の母親に会いに行く。お前をくださいって、頭を下げに行く」

『湊、くん……』

「俺が、お前の『責務』ごと、全部受け止めてやる。だから、もう一人で悩むな」


俺の言葉は、決してスマートではなかったかもしれない。

けれど、今の彼女に必要なのは、慰めではなく、共に戦うという覚悟の表明だと思った。


『……ぐすっ……うぅ……っ』


しばらくの間、電話越しに彼女の泣き声だけが響いていた。

それは、絶望の涙ではなかった。

がんじがらめになっていた心が、ようやく解き放たれたような、安堵の涙だった。


『……わたしも、好き……。湊くんが、好き……。……わたし、湊くんと一緒に、いたい……っ!』


ようやく絞り出されたその言葉を、俺はしっかりと胸に刻み込んだ。

俺たちの前には、まだ巨大な壁がそびえ立っている。

だが、もう怖くはない。


「わかった。……じゃあ奏羽、明日の放課後、俺と一緒に来てほしい場所がある」

『……場所?』

「ああ。……凪瀬の家に、もう一度」


俺たちの本当の戦いが、今、始まろうとしていた。


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