第31話:守られた者の責任と、少しの不安
「本当に、怪我はない? どこか痛いところとか……」
図書室の奥、いつもの特等席。
奏羽はまだ心配そうに、俺の顔や腕をぺたぺたと触って確認している。
彼女は俺の胸でひとしきり泣いた後、俺の袖を掴んでここまで引っ張ってきたのだ。
「大丈夫だって。奏羽が来てくれたから、何もされなかったよ。……それより、お前こそすごかったな。あの上級生たちを、一睨みで黙らせるなんて」
俺が感心したように言うと、奏羽は俺の肩に顔を埋め、ふるふると首を横に振った。
「すごく、怖かった……。足も、まだ震えてる……」
「……そうだよな。無理もない」
「でも、湊くんが……湊くんが傷つけられるのを見る方が、もっと怖かったから。……だから、頑張れたの」
俺の胸元で、彼女の声がくぐもって響く。
そのか細い声に込められた、俺への深い愛情。
守られているのは、いつだって俺の方だ。不眠症の彼女を助けているつもりが、精神的にも、そして物理的にも、俺は彼女に守られている。
(……俺は、彼女に何をしてやれているんだろう)
ふと、そんな無力感が胸をよぎった。
俺は彼女に朗読をして、安心させることしかできない。
彼女が生徒会長として矢面に立ち、俺への嫉妬や悪意を一身に受け止めているというのに。
「……奏羽」
「ん……?」
「……俺、もっと強くならなきゃな」
俺の唐突な言葉に、奏羽は不思議そうに顔を上げた。
「湊くんは、そのままでいいよ? わたしは、優しい湊くんが……」
「違うんだ。優しさだけじゃ、お前を守れない。……お前が俺を守ってくれるなら、俺は、お前が安心して甘えられる『壁』にならなきゃいけないんだ」
生徒会長という重圧。
俺の存在によって生まれる新たな敵意。
それら全てから彼女を守る、揺るがない壁に。
俺はただの「寝かしつけ係」から、彼女の「盾」になる覚悟を決めなければならない。
俺の真剣な眼差しに、奏羽も何かを感じ取ったらしい。
彼女は何も言わず、ただこくりと頷き、再び俺の肩に頭を預けた。
その仕草は、まるで「あなたを信じてる」と語っているようだった。
俺たちはしばらく、無言のまま互いの体温を感じ合っていた。
今日起きた出来事が、俺たちの関係に新たな深みと、そしてほんの少しの影を落としていた。
* * *
その日の帰り道。
俺は奏羽を家の近くまで送っていった。
夕暮れの住宅街、オレンジ色の光が俺たちの影を長く伸ばしている。
「じゃあ、また明日な」
「うん。……湊くん、気をつけて帰ってね。さっきみたいな人が、また待ち伏せしてないか心配だから……」
「大丈夫だよ。何かあったら、すぐに奏羽に電話するから」
俺が冗談めかして言うと、彼女は「絶対だよ!」と真剣な顔で頷いた。
彼女の家の門の前で別れようとした、その時だった。
「——奏羽? その方、どなたかしら」
門の奥から、凛とした、しかしどこか冷たい女性の声が聞こえた。
振り返ると、そこには奏羽によく似た、美しい着物姿の女性が立っていた。
年の頃は四十代だろうか。厳しいほどの美貌と、隙のない佇まいは、奏羽が将来こうなるのだろうかと想像させるに十分だった。
「お、お母様……!」
奏羽の声が、明らかに強張った。
俺の隣で甘えていた彼女の姿は消え、まるで氷のように張り詰めた「完璧な令嬢」の顔つきに戻っている。
「こちらは……クラスメイトの、風森湊くんです。少し、勉強を教わっていました」
「風森さん、ですか。……いつも娘がお世話になっております」
奏羽の母親は、俺に向かって深々と頭を下げた。
その所作は完璧だったが、俺を見るその目には、品定めするような鋭い光が宿っていた。
まるで、娘に近づく害虫でも見るかのような、冷たい光が。
「いえ、こちらこそ……」
俺がしどろもどろに返事をすると、彼女は奏羽の肩にそっと手を置いた。
「さあ、奏羽。もう門限です。中へお入りなさい。……風森さんも、あまり娘を遅くまで引き留めないでいただけますか? この子は、貴方とは違う世界で、果たさねばならない『責務』がありますので」
その言葉は、丁寧な口調とは裏腹に、俺と奏羽の間に明確な線を引く、鋭い刃のようだった。
俺たちの前には、上級生の嫉妬よりも、遥かに高く、そして分厚い壁が立ちはだかっている。
奏羽を苦しめる、最大のプレッシャーの根源。
俺は、何も言い返せないまま、ただ黙って頭を下げることしかできなかった。




