第25話:監視者の変化と、週末への序曲
あの日、一条副会長と静かなる停戦協定を結んでから数日。
図書室の奥の光景は、一見すると何も変わっていなかった。
俺の右肩には、穏やかな寝息を立てる奏羽の重み。彼女の指先は、いつものように俺の制服の袖を掴んでいる。
そして、少し離れた椅子には、生徒会の膨大な資料と向き合う一条零の姿。
だが、決定的に違うことが一つあった。
零が俺たちに向ける視線から、以前のような鋭い敵意が完全に消え失せていたことだ。
彼女は時折、キーボードを叩く手を止め、奏羽の安らかな寝顔を、まるで大切な宝物でも見るかのように、静かに見つめている。
そして、俺が奏羽の頭を撫でると、小さく息を吐いて自分の仕事に戻っていく。
それは「監視」というよりは、むしろ「見守り」に近い行為だった。
「……んっ」
閉館時間を少し過ぎた頃、奏羽がゆっくりと身じろぎをして目を覚ました。
「おはよう、奏羽。よく眠れたか?」
「……うん。湊くん、おはよう」
彼女は寝起きのぼんやりとした頭で俺の顔を見上げ、ふにゃりと幸せそうに笑った。
最近の彼女は、寝起きにパニックを起こしたり、恥ずかしがって飛び退いたりすることがなくなった。俺の隣で眠り、俺の腕の中で目を覚ますことが、当たり前の日常になりつつある。
「あのね、湊くん」
「ん?」
「最近、放課後にこうして眠れるからか、夜も少しだけ……一人で眠れるようになってきたの」
彼女の告白に、俺は目を見張った。
「本当か!? それはすごいじゃないか」
「うん。湊くんのシュシュを握りしめて、湊くんの声を思い出すとね、前みたいに心臓がドキドキしなくなるの」
それは、俺たちの秘密の放課後がもたらした、何より嬉しい成果だった。
彼女を苦しめていた不眠症という呪いが、少しずつ解け始めている。
だが、奏羽は嬉しそうに報告しながらも、どこか寂しげな表情を浮かべていた。
「でもね……」
「でも?」
「夜、眠れるようになると……今度は、ただ湊くんの声が聞きたくて、寂しくなっちゃうの。……放課後しか会えないの、やっぱり嫌だなって」
不眠を解消するための「治療」から、ただ純粋に「好きな人と一緒にいたい」という、恋する乙女の我儘へ。
彼女の中で、俺への感情が新たなステージに進んでいる証拠だった。
そのいじらしい欲求に、俺の胸がきゅんと締め付けられる。
——その時だった。
俺たちの会話を黙って聞いていた零が、ノートパソコンの画面から顔を上げずに、ボソリと呟いた。
「……会長。貴女が本当に彼と一緒にいたいなら、学園の外でも会う口実を作ればいいだけの話では? 例えば、次の週末は特に予定もないはずですが」
その言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、奏羽の心に響いたらしい。
「——そっか!」
奏羽はパァッと顔を輝かせ、俺の腕の中で勢いよく身を起こした。
そして、期待に満ちたキラキラした瞳で、俺の顔を覗き込んできた。
「湊くん! 今度の土曜日、空いてる!? よかったら、わたしと……で、デート、しない!?」
いきなりの「デート」という直球すぎる単語に、俺は完全に思考が停止した。
「で、でで、デート!?」
「えっ……? だ、だめ……かな?」
俺が狼狽する姿を見て、奏羽は途端に不安そうな顔になり、潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
その手は、懇願するように俺の袖をさらに強く握りしめている。
断るなんて選択肢、存在するはずもなかった。
「……だ、ダメじゃない! 行こう、デート!」
「ほんと!? やったぁ!」
奏羽は子どものように喜び、再び俺の胸に飛び込んできた。
俺は彼女を抱きしめながら、ちらりと零の方を見る。
彼女は「私はただ、会長の精神安定に繋がる効率的な解決策を提案しただけです」とでも言いたげな涼しい顔で、事務作業に戻っていた。
しかし、その口元がほんの僅かに、楽しそうに綻んでいるのを、俺は見逃さなかった。
氷の監視者は、いつの間にか俺たちの関係を面白がり、密かに背中を押す、厄介で頼もしいキューピッドへと変貌を遂げようとしていた。
俺たちの、初めての「デート」。
その甘くて少しだけ波乱の予感がする響きに、俺の心臓は週末まで持ちそうになかった。




