第24話:監視下での図書室、そして一条零の「弱点」
「……それでは、朗読を始めてください」
図書室の奥、いつもの特等席。
しかし今日のそこには、俺と奏羽の間に「氷の壁」のような存在が座っていた。
一条 零だ。彼女は眼鏡の奥で鋭い光を放ちながら、俺たちのすぐ横の椅子に座り、ノートパソコンと紙の資料を使って生徒会の事務処理を行っている。
「……湊くん」
奏羽が、俺の袖口をいつものようにぎゅっと掴んできた。
零の視線を感じているのか、彼女の手は昨日よりも強く震えている。
「大丈夫だ。……今日は、これにするか」
俺はわざとらしく本を開き、努めて穏やかな声で読み始めた。
零が監視していようが、関係ない。俺の目的は「奏羽を安眠させること」だけだ。
「『——昔々、あるところに……』」
俺の声が響くと、零がチラリとこちらを見た。
彼女は、俺の声が奏羽に与える影響を、科学的に分析でもするつもりなのかもしれない。
読み進めること数分。
奏羽の呼吸が深くなり、俺の肩に頭が乗った。
零がいるからといって、彼女の依存心は少しも減らない。むしろ、俺の存在を「独占」しようとするかのように、いつもより強く袖を握りしめている。
「……ふむ」
零が小さく鼻を鳴らした。
彼女の視線が、俺たちの密着具合に突き刺さる。
「風森さん。少し近いのでは?」
「……本を読むのに、これが一番聞き取りやすい距離なんです」
「なるほど。では、その『聞き取りやすい距離』が彼女の精神安定に寄与しているという仮説は、一定程度正しいようですね」
零は淡々とそう言い放つと、パチパチとキーボードを叩き続けた。
こいつ、本当に人間なのか? 俺と奏羽がいちゃついているのを横目に、全く動じずに生徒会の事務をこなしている。
……いや、違う。
ふと見ると、零の手元が少しだけおぼついている。
(もしかして……)
俺は気づいた。
彼女が俺たちを監視するために持ち込んでいる膨大な資料。その中に、一枚の古い楽譜が混ざっている。
クラシック音楽の楽譜だ。
「一条副会長」
「……何ですか。今は集中しています」
「失礼ですが、ピアノ、弾かれるんですか?」
零の手が、ピタリと止まった。
「……どうしてそれを」
「楽譜が……少し見えたので」
零はハッとして、慌てて資料を隠した。
その仕草は、完璧な副会長の仮面が剥がれ落ちた、年相応の女の子のそれだった。
「……趣味です。……それ以上、詮索しないでください。私は会長の監視に来たのですから」
零はそう言って顔を背けたが、耳元がわずかに赤くなっている。
氷の副会長にも、弱点がある。
俺は小さく口角を上げた。
「……一条副会長、もしよろしければ、この子が眠っている間に、ピアノの話を聞かせてもらえませんか?」
俺は、眠る奏羽の髪を指先でそっと撫でながら、極力小声で零に話しかけた。
彼女を起こしたくないという共通認識が、俺たちの間に無言のルールを作り出す。
「っ……!」
零の背中がビクッと跳ねた。
彼女は俺の方を睨みつけたが、その瞳には動揺が隠しきれていない。声を荒げることもできず、唇を噛んで耐えている。
「……貴方、何を考えているのですか? 私の個人的な趣味を、この状況で持ち出すとは」
「ただの図書委員の興味本位ですよ。……貴女にだって、誰にも邪魔されたくない、大切な時間があるんだろうな、と思いまして」
俺の言葉は、ただの質問ではなかった。
それは、「俺たちにも、邪魔されたくない時間がある。お互い様でしょう?」という、静かな牽制だった。
零は俺の意図を正確に読み取ったのだろう。彼女は一度、俺から視線を外し、深く息を吐いた。そして、諦めたように、しかしどこか誇らしげに口を開いた。
「……リストが好きです。特に、超絶技巧練習曲」
「リスト、ですか。意外ですね。もっと静かな曲を好まれるのかと」
超絶技巧練習曲。その名の通り、激しく、情熱的で、高度な技術を要求される曲だ。
普段の冷静沈着な彼女からは想像もつかない選曲だった。
「……完璧を求められる日常の中で、唯一、感情を爆発させられるのがピアノなんです。誰にも文句を言われず、ただ指先に全てを委ねられる。……あの時間だけが、本当の私でいられる」
零はそう言って、奏羽の眠る顔を、どこか羨むような、そして慈しむような目で見つめた。
彼女もまた、奏羽と同じように「完璧」という鎧の中で、息苦しさを感じていたのかもしれない。
俺はそれ以上、彼女の趣味に深入りしなかった。
ただ一言、「素敵な趣味ですね」とだけ返した。
完璧な生徒会長。冷徹な副会長。平凡な図書委員。
俺たちは奏羽の穏やかな寝息をBGMに、互いの「秘密」という名の聖域に、ほんの少しだけ触れ合った。
(……これで、少しは静かになるだろう)
俺は心の中で、小さく息を吐いた。
彼女を「味方につける」なんて大それたことは考えていない。
ただ、お互いの大切なものを壊さないように、干渉しないように。
氷の副会長と俺の間に、そんな暗黙の了解が生まれた気がした。
俺の肩の上で、奏羽は小さく幸せそうに唇を動かし、俺の制服をぎゅっと握り直した。
彼女が目を覚ますまで、この甘い静寂を、俺と「秘密を共有した監視者」は、誰にも邪魔させないつもりだ。




