第21話:完璧なスピーチと、秘密のアイコンタクト
二階ギャラリーの一番後ろの席に滑り込んだ直後、アリーナの照明が一段階落とされ、ステージ中央のスポットライトが点灯した。
「——続きまして、本日のホスト校を代表し、生徒会長・凪瀬奏羽よりご挨拶申し上げます」
司会の声に促され、ステージの袖から一人の少女が姿を現した。
腰まで届く艶やかな黒髪。ピンと伸びた背筋。誰の目にも隙のない、洗練された歩み。
アリーナを埋め尽くす他校の生徒会役員たちから、感嘆のようなどよめきが漏れる。
「あれが、噂の氷の生徒会長か」「綺麗すぎるだろ……」という囁きが、二階の俺の耳にまで届いてきた。
ステージ中央のマイクスタンドの前に立ち、奏羽はゆっくりと会場全体を見渡した。
その表情は、先ほど控室で俺の胸で泣きじゃくっていた時とは別人のように凛としており、まさに「完璧な生徒会長」そのものだった。
しかし、俺にはわかっていた。
マイクの前に添えられた彼女の指先が、微かに震えていることを。
シュシュを奪われ、パニック状態からギリギリで立て直したばかりの彼女にとって、この数百人の視線は、まだ恐怖の対象でしかないはずだ。
(奏羽……)
俺は手すりから身を乗り出し、ステージ上の彼女を見つめた。
距離は遠いが、俺の視線に気づいてほしいと願いながら。
——その時だった。
スピーチを始める直前、奏羽の視線が、アリーナ席を一瞥した後、ゆっくりと二階のギャラリーへと向けられた。
そして、一番後ろの席にいる俺の姿を、真っ直ぐに捉えた。
距離にして数十メートル。
けれど、俺と彼女の視線が交差した瞬間、図書室の奥で膝枕をしている時と同じような、二人だけの静かで確かな空間が生まれた気がした。
俺は無言で、彼女に向かって小さく頷いてみせた。
『大丈夫。俺がここにいる』というメッセージを込めて。
すると奏羽は、微かに——本当に、俺にしかわからないほどの僅かな動きで——口角を上げ、ふっと息を吐いた。
震えていた指先から、スッと力が抜けるのがわかった。
そして、彼女は真っ直ぐに前を向き、凛とした声で口を開いた。
「——本日はお忙しい中、我が校にお集まりいただき、誠にありがとうございます」
マイクを通して響き渡る声は、とても美しく、そして堂々としていた。
震えも、淀みも一切ない。
「私たちは、各校の垣根を越え、より良い学園生活を共有するための、有意義な意見交換の場として、本日の交流会議を……」
暗記した原稿をただ読み上げるのではなく、自分の言葉として、会場の一人一人に語りかけるようなスピーチ。
それは、図書室の特訓で俺が彼女に読み聞かせた、あの穏やかなトーンそのものだった。
(……すごい)
俺は鳥肌が立つのを感じた。
去年は頭が真っ白になり、メモを見ながらでしか話せなかったという彼女が。
直前に「お守り」を奪われ、パニックに陥っていた彼女が。
今、俺の声のトーンをなぞるように、堂々と、完璧にスピーチをこなしているのだ。
時折、彼女は原稿の区切りで、再び二階の俺へと視線を向ける。
その度に、俺は「いいぞ、そのまま」「落ち着いてる」と、口パクと頷きで応えた。
それは、何百人もの人間がいるこの体育館の中で、俺と奏羽だけが交わしている、秘密のアイコンタクトだった。
「——各校が手を取り合い、より良い未来を築いていくための……その第一歩と、なりますように。本日は、よろしくお願いいたします」
最後の一文を紡ぎ終え、奏羽が深く一礼した瞬間。
アリーナからは、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
他校の生徒たちも、教師陣も、彼女の堂々たるスピーチに圧倒され、惜しみない賞賛を贈っている。
(……やったな、奏羽)
俺は安堵の息を吐き、自分も大きく拍手をした。
ステージ上で顔を上げた彼女は、やはり一番最後に俺の方を見上げ——今度ははっきりと、花が綻ぶような、誇らしげな笑顔を見せてくれた。
『……完璧だったでしょ、湊くん』
そう言っているかのように。
* * *
「……どうやら、私の負けのようですね」
拍手が鳴り止まない中、俺の隣にいつの間にか一条副会長が立っていた。
彼女は腕を組み、ステージ上の奏羽を見つめながら、悔しそうに、しかしどこか安堵したように息を吐いた。
「風森さん。貴方は本当に、会長の『息継ぎできる場所』だったのですね」
「一条副会長……」
「まさか、本番直前に私がシュシュを没収したことで、貴方が直接控室に乗り込んでくるとは思いませんでしたよ」
「……え?」
俺が驚いて振り返ると、一条副会長は銀縁眼鏡の奥で、小さく笑った。
「私が本気で会長を潰そうとするわけがないでしょう。……ただ、シュシュという『物』への依存ではなく、貴方という『存在』そのものが、彼女をどれだけ強くできるのかを試したかっただけです」
一条副会長は、ポケットから例のシュシュを取り出し、俺に差し出した。
「……約束通り、貴方と会長の放課後には、もう口出ししません。ただし、学園の秩序を乱すような真似をすれば、容赦なく排除しますからね」
「……ありがとうございます。でも、これからはもう少し、手加減してください。俺の心臓が持ちません」
俺が苦笑いしながらシュシュを受け取ると、一条副会長は「それは貴方の自己責任です」と冷たく言い残し、アリーナへと戻っていった。
(……これで、本当に俺たちの秘密の放課後は守られたんだな)
俺は手の中のシュシュを強く握りしめた。
ステージ上の奏羽は、すでに司会に進行を譲り、役員席へと戻っている。
『……終わったら、ご褒美……ちょうだいね、湊くん』
出番前に彼女が口にした言葉を思い出し、俺は少しだけ鼓動を早めながら、体育館を後にした。
俺たちの「試練の七日間」は、最高の形で幕を閉じた。
そして、この後、彼女からどんな「ご褒美」を要求されるのか……俺の本当の試練は、これから始まるのかもしれなかった。




