第20話:決戦の朝と、裏切りの気配
日曜日。
学園の正門には「近隣校合同・生徒会交流会議」と書かれた大きな看板が立てられていた。
いつもは静かな休日の校舎が、今日は他校の制服を着た生徒たちや教師の姿で賑わっている。
俺は一般生徒の観覧席である、体育館の二階ギャラリーの隅に陣取っていた。
開始時刻まであと十分。階下のアリーナには、各校の生徒会役員たちが整然とパイプ椅子に座り、壇上には来賓席が設けられている。
「……奏羽、大丈夫だろうか」
俺は手すりから身を乗り出し、ステージ脇の控室へと続く扉を見つめた。
今頃、彼女はあの中で極度のプレッシャーと戦っているはずだ。俺が渡したシュシュを握りしめ、必死に深呼吸を繰り返している姿が目に浮かぶ。
『湊くんが、ずっと一緒にステージに立ってくれてるみたい』
あの日の彼女の言葉を信じたい。だが、この物々しい雰囲気は、俺の想像を遥かに超えていた。
他校の生徒会長たちは皆、自信に満ちた顔つきで談笑している。その中で、不眠症でボロボロになっていた彼女が、完璧なスピーチを成し遂げられるのか。
「……おや、風森さん。本当に来られたのですね」
背後から、氷のように冷たい声が降ってきた。
振り返ると、そこには腕を組んでこちらを見下ろす一条副会長の姿があった。
「一条副会長……」
「一般生徒がこのような場所にいるとは、よほど暇なのでしょうか。それとも、会長の失態を見届けに来たのですか?」
「俺は、奏羽さんが完璧なスピーチをするのを見に来ただけです。約束通り、彼女のプレッシャーは俺が取り除きましたから」
俺が強気で言い返すと、一条副会長は銀縁眼鏡を押し上げ、フッと鼻で笑った。
「プレッシャーを取り除いた、ですか。……貴方が会長の右手に巻きつけた、あの見窄らしいシュシュのことですか?」
ドキリとした。
奏羽の腕のシュシュに気づいていたのか。
「あれは、俺のお守りです。あれがあれば、彼女は落ち着いて——」
「——残念ながら、あのような不純物は、神聖な式典の場には相応しくありません。ですから、先ほど私が没収しました」
「……没収!?」
俺は思わず声を荒らげた。
一条副会長は涼しい顔で、制服のポケットから俺の紺色のシュシュを取り出し、ヒラヒラと見せつけた。
「会長は必死に抵抗しましたが、『そんな汚らわしいものをつけて壇上に上がれば、他校から我が校の品位を疑われる』と説得しました。……彼女は今、シュシュを奪われ、パニック状態で控室に一人で閉じこもっていますよ」
「なっ……! 卑怯だぞ! お前、奏羽さんのスピーチを成功させるのが目的じゃないのか!?」
「ええ、もちろん成功させますよ。……ただし、貴方のようなノイズに依存してではなく、『完璧な生徒会長』として自立した状態での成功です。もし彼女がこれで潰れるようなら、それまでの器だったということ。そして、貴方の『甘やかし』がいかに無意味だったかが証明される」
一条副会長の言葉に、俺は血の気が引くのを感じた。
シュシュを奪われた奏羽が、どれほど絶望しているか。
俺の匂いや温もりに依存して、ようやく立っていた彼女の「命綱」を、本番直前に断ち切るなんて。
「……今すぐ、それを返してください」
「お断りします。式典は間もなく始まります。貴方はここで、会長が惨めな姿を晒すか、それとも貴方を忘れて完璧なスピーチをするか、見届けていなさい」
一条副会長は冷酷に言い捨てると、踵を返して階段を降りていった。
「くそっ……!」
俺は手すりを強く叩き、階段の方へと走り出した。
このままじゃダメだ。奏羽は確実に潰れる。
俺がそばにいなければ、彼女はプレッシャーの海に溺れてしまう。
(……間に合え、間に合え……!)
一般生徒の立ち入りが制限されている一階のアリーナへ向かうため、俺は人気のない裏階段を駆け下りた。
控室は、ステージの裏側だ。
「……すぅ、はぁ……っ」
息を切らしながらステージ裏の廊下に辿り着くと、そこには「生徒会長控室」と書かれた扉があった。
扉の隙間から、微かに、過呼吸のような荒い息遣いが聞こえてくる。
「……奏羽!」
俺は躊躇わず、扉を勢いよく開け放った。
「ひゃっ……!?」
薄暗い控室の中。
部屋の隅にうずくまり、膝を抱えて震えている奏羽がいた。
彼女の顔は蒼白で、潤んだ瞳は恐怖に見開かれている。俺が渡したはずのシュシュは手首になく、代わりに、自分の腕を爪が食い込むほど強く掻き毟っていた。
「湊……くん……?」
信じられないものを見るように、彼女が弱々しく俺の名前を呼ぶ。
「……ごめん。来るのが遅くなった」
「湊くん……っ! 湊くん、湊くん……っ!」
奏羽は弾かれたように立ち上がり、俺の胸に縋り付いてきた。
その身体は、氷のように冷たく、小刻みに震えている。
「零が……っ、湊くんのお守り……取っちゃったの……っ。返してって言ったのに……っ」
「わかってる。大丈夫だ、俺がここに来たから」
「でも……わたし、もう……スピーチの原稿、頭から飛んじゃった……。どうしよう、どうしよう……っ」
パニック状態の彼女を落ち着かせるために、俺は彼女の背中に腕を回し、強く抱きしめた。
そして、彼女の耳元で、できるだけ低く、ゆっくりとした声で囁いた。
「——奏羽。目を閉じて」
「……え?」
「いいから。図書室の特訓と同じだ。俺の声だけを聞け」
俺の低いトーンの指示に、奏羽はビクッと肩を揺らした後、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸が少しだけ落ち着く。
「……『本日はお忙しい中、我が校にお集まりいただき、誠にありがとうございます。』」
俺は、彼女の背中を一定のリズムで叩きながら、俺自身が暗記してしまったスピーチの冒頭を読み上げた。
「……っ」
「『私たちは、各校の垣根を越え……』」
俺の声が、彼女の耳に直接届く。
強張っていた身体の力が、少しずつ抜けていくのがわかった。
手首のシュシュはなくても、俺自身がここにいる。その事実が、彼女をプレッシャーの海から引き上げようとしていた。
「——湊くん……っ」
「もう大丈夫だ。俺が、一番後ろの席でずっと見てるから。もし途中で頭が真っ白になったら、俺の顔を見ろ。俺が口パクで続きを教えてやる」
「……うんっ、うん……!」
奏羽は俺の胸に顔を押し付け、何度も力強く頷いた。
その瞳には、恐怖ではなく、確かな熱が戻っていた。
「……そろそろ時間だ。行けるか?」
「……うん。湊くんが、見ててくれるなら」
彼女は涙を拭い、凛とした「生徒会長」の顔を作り直した。
その時、控室の扉がノックされ、「凪瀬会長、出番です」と進行係の声が響いた。
「行ってこい。俺の自慢の、完璧な生徒会長」
俺が背中を押すと、奏羽は振り返り、最高に美しく、そして少しだけ悪戯っぽい笑顔を見せた。
「……終わったら、ご褒美……ちょうだいね、湊くん」
そう言い残し、彼女は光の差すステージへと向かっていった。
俺は急いで二階のギャラリーへと戻り、彼女の晴れ舞台を見届ける準備をした。
一条副会長の卑劣な罠を乗り越え、俺たちの絆が本物であることを証明するために。




