第19話:不器用な練習と、夜の特等席
「『……各校が手を取り合い、より良い未来を築いていくための……その第一歩と、なりますように』」
図書室の奥、俺の膝枕の上で。
奏羽が、ゆっくりと、しかしはっきりとした声でスピーチ原稿の最後の一文を紡ぎ終えた。
目を閉じたままの彼女の表情は、最初の頃の強張りから見違えるほど穏やかになっていた。
「……どうかな、湊くん」
「完璧だ。途中、一度もつっかえなかったし、早口にもならなかった。この調子なら、日曜日も大丈夫だろ」
俺が頭をポンポンと撫でてやると、奏羽は嬉しそうに目を開け、ふにゃりと笑った。
「湊くんが……膝枕で、ずっと頭撫でててくれたから。湊くんの体温と、匂い……すごく、安心する」
「そ、そうか」
下から見上げてくる彼女の潤んだ瞳と、無防備すぎる言葉に、俺は思わず視線を逸らした。
「甘やかす」と宣言したのは俺自身だが、この体勢は健康な男子高校生にとって、かなり理性を削られる。
彼女の柔らかい頭の重みと、甘いシャンプーの香りがダイレクトに伝わってくるのだから無理もない。
「……でも、まだ怖い」
奏羽が、俺の制服の裾を握る手にきゅっと力を込めた。
「今は湊くんがすぐそばにいるから読めるけど……日曜日は、体育館のステージで、何百人もの前で一人で話さなきゃいけないんだよ? 零の目もあるし……わたし、また頭が真っ白になっちゃうかも」
彼女の不安はもっともだ。
俺の「声」と「体温」に依存してプレッシャーを和らげている以上、本番で俺がいなければ、元の木阿弥になってしまう可能性は高い。
「……わかった。じゃあ、本番でも俺がそばにいるって思えるような『お守り』を作ろう」
「お守り?」
「ああ。少し体を起こしてくれ」
俺が言うと、奏羽は名残惜しそうにしながらも、ゆっくりと体を起こし、俺の隣に座り直した。
俺は自分の鞄をごそごそと漁り、いつも図書委員の仕事で使っている、少し大きめの紺色のシュシュを取り出した。
本を縛ったり、作業中に袖を捲る時に使っているものだ。
「これ……」
「右手を貸して」
俺は奏羽の細い右手首に、そのシュシュを二重に巻きつけた。
「俺がいつも使ってるやつだから、少しだけど……俺の匂いがついてると思う。本番で緊張しそうになったら、こっそりこれに触れて、深呼吸してくれ。俺が隣で膝枕してる時と同じくらい、リラックスできる……かもしれない」
少し気恥ずかしくて早口になってしまったが、奏羽は手首に巻かれたシュシュをじっと見つめ、パァッと顔を輝かせた。
「湊くんの、匂い……」
彼女はシュシュを鼻先に近づけ、スーッと深く息を吸い込んだ。
そして、宝物のように両手で包み込む。
「……これがあれば、絶対大丈夫。湊くんが、ずっと一緒にステージに立ってくれてるみたい」
「それは少し大げさだけどな」
「ううん、本当だよ。……ありがとう、湊くん。わたし、日曜日、絶対に成功させるね」
一条副会長に言い返した時のように、彼女の瞳には強い意志が宿っていた。
これなら、きっと乗り越えられる。そう確信した時だった。
「……風森くん、奏羽ちゃん。そろそろ閉館の時間よ」
カウンターの方から、柚原先輩の声が響いた。
ハッとして時計を見ると、いつの間にか下校時刻のチャイムが鳴り終わっていた。
「やば、もうこんな時間か。柚原先輩、すみません! すぐ片付けます!」
「ふふっ、ゆっくりでいいわよ。……特訓の成果、出るといいわね」
柚原先輩は意味深に微笑みながら、鍵の束をチャラチャラと鳴らした。
おそらく、膝枕での朗読特訓も、シュシュを渡したことも、すべてお見通しなのだろう。
* * *
その日の夜。
俺はベッドの中で、スマホの画面を見つめていた。
時刻は夜の十一時半。
「……そろそろ、寝たかな」
最近は寝落ち通話の頻度を減らしている(奏羽の「甘えすぎ」への反省のため)が、日曜日が近づくにつれて、彼女の不眠が再発していないか心配だった。
——ピコン。
その時、メッセージアプリに通知が届いた。
奏羽からだ。
『湊くん、起きてる……?』
『起きてるよ。眠れないのか?』
すぐに既読がつき、返信が来る。
『ううん。今日は、湊くんのシュシュがあるから……すごく安心してるの。でも、少しだけ……声が聞きたくて』
俺は小さく息を吐き、通話ボタンを押した。
「もしもし、奏羽?」
『……湊、くん』
スマホ越しに聞こえる声は、とても穏やかだった。
「シュシュ、効果あったか?」
『うん。湊くんの匂いがして……図書室の特等席にいるみたい』
「そっか、よかった」
『……ねえ、湊くん』
「ん?」
『日曜日……わたしのスピーチ、見に来てくれる?』
交流会議は生徒会役員と関係者だけの集まりだが、一般生徒も見学することは可能だ。
「ああ、もちろん行くよ。お前が完璧にやり遂げるのを、一番後ろの席で見届けるから」
『……うんっ。絶対、成功させるから。……おやすみなさい、湊くん』
「おやすみ、奏羽」
通話が切れる直前、微かに「……すき」という寝言のような呟きが聞こえた気がしたが、俺は深く追及せず、そっとスマホを置いた。
決戦の日曜日まで、あと三日。
孤高の生徒会長と平凡な図書委員の、試練の週末が始まろうとしていた。




