第15話:氷の決別と、帰るべき場所
翌日の授業中、俺の頭の中は生徒会室のことでいっぱいだった。
黒板の文字は右から左へと抜け落ち、ノートには意味のない線ばかりが書きなぐられている。
「おい、湊。お前、今日ずっと上の空だぞ? また氷の生徒会長のこと考えてんのかー?」
昼休み、前の席の陸がニヤニヤしながら唐突に痛いところを突いてきた。
「……別に、考えてない」
「嘘つけ。顔に『凪瀬さんが心配です』って書いてあるぞ。……ま、あの子、今日は朝からすげーピリピリしてたらしいからな。隣のクラスの奴らが『今日の会長、絶対零度通り越して液体窒素レベルだった』って震えてたわ」
液体窒素レベル。
それは間違いなく、一条零との話し合いを控えて警戒レベルがMAXになっている証拠だろう。
(……大丈夫だろうか)
俺はただの平凡な図書委員だ。生徒会の内部事情に口を出す権利なんてない。
だからこそ、昨日「一人で話してこい」と背中を押したものの、もし彼女が「完璧な生徒会長」としての重圧に耐えかねて、俺から離れることを選んでしまったら——。
そんな自己中心的な不安が、胸の奥で黒く渦巻いていた。
* * *
そして、放課後。
いつものように図書室の奥、死角になっている書架の前に座り、俺はひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
カウンターには柚原先輩がいるが、今日は俺に仕事を与えず、ただ静かに見守ってくれている。
時計の針が、ゆっくりと進む。
いつもなら、とっくに彼女がやってきて、俺の袖口を掴んでいる時間だ。
「……来ない、か」
やはり、一条副会長の説得に屈したのだろうか。
学園のアイドルであり、完璧な生徒会長である彼女にとって、俺のような日陰の存在と関わることはリスクでしかない。それが正常な判断だ。
そう自分に言い聞かせて、諦め半分で立ち上がろうとした、その時だった。
——タッタッタッ!
図書室には似つかわしくない、慌ただしい足音が響いた。
「湊、くん……っ!」
書架の影から飛び出してきたのは、息を切らした奏羽だった。
艶やかな黒髪は少し乱れ、いつもは隙のない制服のネクタイも僅かに歪んでいる。
彼女は俺の姿を認めた瞬間、顔をくしゃりと歪め、そのままの勢いで俺の胸に飛び込んできた。
「わっ……!? 奏羽!?」
ドンッ、と柔らかな衝撃。
奏羽は俺の制服の胸元を両手でぎゅっと握りしめ、顔を強く押し付けてきた。
「……遅くなって、ごめんなさい。……っ、湊くん、湊くん……」
「お、落ち着け。どうしたんだ? 零さんとは……」
俺が背中をポンポンと叩くと、奏羽は俺の胸に顔を埋めたまま、ふるふると首を横に振った。
「……言ってきた。零に、全部……言ってきた」
「全部って?」
「……『風森くんとの接触を断て』って言われたから……『絶対に嫌だ』って」
奏羽の声は少し震えていたが、そこにははっきりとした強い意志が込められていた。
「零は……わたしのこと、『完璧な生徒会長じゃなくなる』って怒ったけど。……でも、わたし、言ったの」
奏羽がゆっくりと顔を上げる。
潤んだ黒い瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「『完璧な生徒会長なんて、どうでもいい』って。……『湊くんがいないと、わたしは夜も眠れないし、息もできない。……学園の秩序より、わたしは湊くんの隣を選ぶ』って」
「……っ」
俺は言葉を失った。
一条零という冷徹な副会長を前に、学園の頂点に立つ彼女が、すべてを投げ打ってでも「俺」を選んでくれたというのか。
「……馬鹿だな、お前は。そんなこと言ったら、生徒会での立場が……」
「いいの。……湊くんがいない世界で、完璧でいたって……なんの意味もないもん」
奏羽は再び俺の胸に顔を埋め、今度は俺の背中に腕を回して、強く抱きしめてきた。
「……怖かった。零に反対されて、もし、湊くんまで『もう会うのやめよう』って言ったらどうしようって……。ずっと、怖かった……」
震える小さな肩。
彼女は「氷の生徒会長」として気丈に振る舞っていただけで、内面は誰よりも不器用で、不安でいっぱいの普通の女の子なのだ。
俺は躊躇いを捨て、彼女の背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。
「……言わないよ。俺も、お前を手放す気なんてない」
「湊くん……」
「お前が俺の声がないと眠れないように……俺も、お前が隣にいないと、もう日常に戻れないんだ」
俺がそう告げると、奏羽はホッとしたように小さく息を吐き、俺の腕の中で完全に脱力した。
昨日までの「無自覚な甘え」とは違う、確かな絆を感じる抱擁。
「……今日は、本、読まなくていいから」
俺の胸の中で、奏羽が甘ったるい声で囁く。
「……こうして、ずっと……抱きしめてて。湊くんの心音、聞いてたい……」
図書室の奥、二人だけの秘密の場所。
嵐のような一日を経て、彼女は帰るべき場所——俺の腕の中へと、無事に帰還したのだった。
(……さて、一条副会長がこれで引き下がるとは思えないが)
そんな現実的な懸念は頭の片隅に追いやり、俺はただ、腕の中の愛おしい温もりを守るように、彼女の頭を優しく撫で続けた。




