第147話:深夜の足湯と、湯煙の囁き
「……ほら、奏羽。立ったままだと身体が冷えるぞ。座ろっか」
俺が優しく促すと、奏羽は名残惜しそうに俺の胸から身体を離し、こくりと頷いた。
二人並んで、檜の香りが漂う足湯の縁に腰掛ける。
浴衣の裾を少しだけ捲り上げ、白く細い足をそっとお湯へと沈める奏羽。
俺も隣で同じように足を浸すと、じわりとした心地よい熱が、つま先から全身へと染み渡っていった。
「……ふぁぁ……あったかいね、湊くん」
「ああ、生き返るな。……歩き回って足パンパンだったし」
竹林を揺らす夜風が、湯気をふわりと散らしていく。
月明かりと、足元を照らす小さな間接照明。
静まり返った深夜の空間に、チョロチョロとお湯が注がれる音だけが響いていた。
「……あのね、湊くん」
奏羽が、少しだけ照れくさそうに俺の顔を盗み見てきた。
「ん? どうした?」
「湊くんの浴衣姿……すごく、かっこいいよ。普段の制服も好きだけど、なんか、少し大人っぽく見えて……ドキドキしちゃう」
両手で自分の赤い頬を隠しながら、もごもごと呟く奏羽。
その仕草があまりにも可愛くて、俺もつられて耳が熱くなるのを感じた。
「……お前こそ、似合いすぎだろ。うなじとか、普段見えないから……目のやり場に困る」
「えっ……う、うなじ……?」
奏羽は慌てて自分の首筋に手を当て、ますます顔を赤く染めた。
湯気のせいだけではない熱が、二人の間にじんわりと広がっていく。
「……ふふっ。でも、嬉しいな」
奏羽は足をちゃぷんと揺らしながら、俺の肩にそっと頭を預けてきた。
「昼間は、散々だったもんね。鹿に追いかけられて、わたし、本当に泣きそうだった」
「あはは、あの時の悲鳴、すごかったぞ。『こっち来ないでぇぇ!』って」
「もう、湊くん笑わないでよ! あれ、本当に怖かったんだから!」
プクッと頬を膨らませて怒る奏羽。
他愛のない会話。学校でも、マンションのリビングでもいつもしているような、なんてことのないやり取り。
けれど、この深夜の旅先で、二人きりで交わす言葉は、いつもよりずっと特別で、胸に深く染み渡るようだった。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「わたしね、修学旅行に来る前、すごく不安だったの」
奏羽は足湯のお湯を見つめながら、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「みんなと一緒に楽しく過ごせるかなとか、夜、湊くんがいないのにちゃんと眠れるかなって……。でも、今日一日、すっごく楽しくて。昨日の夜も、湊くんとメッセージやり取りしてたら、不思議と寂しくならなくて」
彼女は自分の左手を持ち上げ、薬指に光る細いシルバーリングを見つめた。
学校では外しているが、旅館の部屋でこっそりつけ直した、あのホワイトデーの指輪だ。
「……わたし、本当に強くなったんだなって思ったの。湊くんがくれた安心が、ずっと心の中にあるから」
「奏羽……」
「でもね」
奏羽はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「こうやって、湊くんの隣に座って、湊くんの声を聞いてる時間が……やっぱり、世界で一番大好きなの。どんなお薬よりも、景色よりも、湊くんの声が、わたしの『一番の場所』なんだよ」
その真っ直ぐな言葉が、俺の胸の奥をぎゅっと締め付けた。
派手なイベントも、特別なご褒美もいらない。
ただこうして、隣り合って、他愛のない話をしながら、互いの存在を確かめ合うこと。
それこそが、俺たちが積み重ねてきた日々の結晶なのだと、改めて実感する。
「……俺もだよ、奏羽」
俺は湯気の中で、彼女の小さな手をそっと包み込んだ。
お湯の熱と、彼女の体温が混ざり合い、指先から心臓へと温もりが伝わっていく。
「お前が生徒会長を引退しても、受験生になっても……俺はずっと、お前の隣でこうして話を聞いてるから」
「……うんっ」
奏羽は花が綻ぶような、極上の笑顔を浮かべた。
そして、繋いだ手にきゅっと力を込め、さらに深く俺の肩に寄り添ってきた。
「……湊くん。もう少しだけ、お話しよ? ……なんでもいいから、湊くんの声、聞かせて」
「ああ。……じゃあ、明日の最終日、どこ回りたいか計画でも立てるか」
夜の静寂と、立ち上る湯煙。
二人だけの囁き声が、京都の夜空へと静かに溶けていく。
何気ない会話を重ねるごとに、二人の心は、言葉以上に深く、強く結びついていくのだった。




