第146話:消灯後の大脱走と、湯煙の待ち合わせ
夜十時半。
男子の大部屋では、陸を中心とした血で血を洗う大富豪大会が繰り広げられていた。
「革命だァァァッ! 見ろ湊、富豪から大貧民へ転落した気分はどうだ!」
「はいはい、強い強い」
俺が適当に流している横で、同じく輪に加わっていた蒼太が、手元の時計をチラリと見て俺に目配せをしてきた。
時計の針は、すでに消灯時刻の十五分前を指している。
(……そろそろだな)
俺が小さく頷き返すと、蒼太はフッと息を吐き、手持ちのカードを畳の上に叩きつけた。
「あー、もう疲れた。俺、明日の朝早いし寝るわ」
「ええっ!? おい蒼太、まだ勝率五分五分だぞ! 逃げるのかよ!」
「うるせぇ、眠いもんは眠いんだよ」
蒼太がわざとらしく大きなあくびをして布団に潜り込むと、他の男子たちも「まあ、明日本番だしな」「俺も限界かも」と、一人、また一人と離脱していった。
「ちぇー、ノリわりぃなぁ……」
陸が不満そうにカードを片付け始めた、まさにその時。
ガラリ、と部屋の引き戸が開いた。
「おい、お前らー! もう消灯時間だぞ! さっさと電気消して寝ろー!」
見回りの学年主任の野太い声が響く。
部屋の明かりがパチリと消され、真っ暗な静寂が落ちてきた。
引き戸が閉まり、先生の足音が遠ざかっていく。
(……よし、作戦開始だ)
俺は布団の中で息を潜め、じっと時を待った。
五分、十分。
やがて、隣の布団から「ぐかー……すぴー……」と、陸の分かりやすすぎる高いいびきが聞こえ始めた。昼間の鹿騒動とトランプで、完全に体力が尽きたらしい。
スッ、と。
暗闇の中、俺の向かいの布団から人影が起き上がった。蒼太だ。
俺も音を立てないように浴衣の裾を整え、スマホと小さなタオルだけを握りしめて立ち上がった。
足音を殺し、忍び足で襖を開ける。
廊下へ滑り出ると、冷んやりとした夜の空気が火照った肌を撫でた。
「……ふぅ、なんとか抜け出せたな」
俺が小声で囁くと、蒼太は少し気まずそうに頭を掻いた。
「結衣のやつ、待たせると後で何言われるか分かんねぇからな。……風森、お前はどこ行くんだ?」
「俺は、離れにある足湯。あそこなら夜間も照明がついてるし、屋根もあるから」
「そっか。……先生、たまにロビー見回ってるから気をつけろよ」
「ああ、お前もな」
共犯者同士、暗闇の中で小さく拳を合わせ、俺たちは二手に分かれた。
蒼太は裏庭へ続く勝手口へ、俺は中庭を渡る渡り廊下へと向かう。
* * *
キシ、キシと微かに軋む板張りの廊下を、息を潜めて歩く。
心臓がバクバクと激しく打ち鳴らされていた。
もし先生に見つかれば、間違いなく説教&明日の自由行動禁止。
凪瀬夫人との約束もある手前、絶対にバレるわけにはいかない。
だが、それ以上のスリルと期待が、俺の足を前へ前へと進ませていた。
渡り廊下を抜け、竹林に囲まれた小さな離れの小屋へ。
湯気が立ち上るそこは、宿泊客用の小さな足湯スペースだった。
木製の引き戸をそっと開けると、ほんのりと硫黄の香りと、温かい蒸気が顔を包み込んだ。
「……湊くん?」
湯煙の向こう側から、鈴を転がすような、愛おしい声が響いた。
そこにいたのは、旅館の紺色の浴衣に身を包んだ奏羽だった。
長い黒髪はうなじのところで緩くまとめられ、普段は見えない白い首筋が、湯気に濡れて艶っぽく露わになっている。
俺の姿を認めた瞬間、彼女の大きな瞳がパァッと花が綻ぶように輝いた。
「……奏羽」
「湊くん……! 本当に来てくれた……!」
奏羽は足湯の縁から立ち上がり、小走りで俺の元へ駆け寄ると、周りの目も気にせず俺の胸に飛び込んできた。
トンッ、と柔らかな衝撃。
浴衣越しに伝わる彼女の温もりと、石鹸の甘い香り。
「遅くなってごめん。……陸がなかなか寝なくてさ」
俺が彼女の背中に腕を回すと、奏羽は俺の浴衣の胸元をぎゅっと握りしめ、顔を押し付けてきた。
「ううん、待ってたよ。……ずっと、待ってた。……湊くん、湊くん……っ」
擦り寄ってくる彼女の体温が、夜の冷え切った身体を一気に溶かしていく。
深夜の旅館、誰にも見つかってはいけない秘密の場所。
俺と奏羽の、甘くて危険な「修学旅行の本当の特等席」が、静かに幕を開けた。




