第145話:鹿と大仏と、お姫様の受難
修学旅行二日目。
この日の見学ルートは、京都から少し足を伸ばしての奈良観光だった。
「おおーっ! 見渡す限り鹿! 鹿だらけだ!」
近鉄奈良駅から奈良公園へと足を踏み入れた瞬間、陸が歓声を上げた。
木々の間から無数の鹿たちがのんびりと歩き回っている。
「……湊くん、なんか、いっぱいこっち見てる……」
隣を歩く奏羽が、俺のブレザーの袖口をきゅっと掴んできた。
生徒会長としての凛々しさはどこへやら、野生動物の大群を前にして、早くも腰が引けている。
「大丈夫だって。お前が鹿せんべい持ってなきゃ、襲ってきたりしないから」
「そ、そう? ならいいんだけど……」
奏羽がホッと胸を撫で下ろした、その時だった。
「おーい! 鹿せんべい買ってきたぞー!」
満面の笑みの陸が、両手にせんべいの束を抱えて戻ってきた。
その瞬間。
周囲にいた鹿たちの耳が一斉にピクンと跳ね、獲物をロックオンした猛獣のように、陸……を通り越して、なぜか一番近くにいた奏羽の元へと群がり始めたのだ。
「えっ……? ちょ、ちょっと待って……!?」
トコトコと迫り来る茶色の軍勢。
奏羽は持っていた修学旅行のしおりを胸に抱きしめ、後ずさりするが、あっという間に三頭の鹿に包囲されてしまった。
「ひゃうっ!? な、なんにも持ってないよ!? こっち来ないでぇぇぇっ!」
完璧な生徒会長の、情けなさすぎる悲鳴。
鹿たちは容赦なく、彼女のスカートやブレザーの裾をクンクンと鼻先で突き始める。
完全にパニックに陥った奏羽は、涙目で俺に向かって両手を伸ばした。
「湊くんっ! たすけてぇぇぇっ!!」
「……はぁ、しょうがないな」
俺は苦笑いしながら駆け寄り、奏羽の細い腰を抱き寄せて自分の背後へと庇った。
そして、陸から奪い取った鹿せんべいを少し離れた地面へと放り投げる。
サササッと鹿たちの興味がせんべいへと移り、包囲網が一瞬で解かれた。
「……ふぇぇ……怖かったぁ……っ」
俺の背中にしがみついた奏羽は、俺のブレザーを力一杯握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
足がガクガクと震えている。
「大丈夫か? 噛まれたりしてないか?」
「うん……っ。湊くんが、助けてくれたから……」
奏羽は俺の胸に顔を埋め、すんすんと鼻をすすった。
周囲の観光客や他校の生徒たちが「あの子、超可愛い……」「彼氏イケメンだな」とヒソヒソ見ているが、今の彼女にはそんな体裁を気にする余裕はないらしい。
「あーあ、会長のポンコツっぷり炸裂だねー」
少し離れたところでソフトクリームを食べていた結衣が、呆れたように笑った。
その隣では、蒼太が「おい、結衣、服にソフトクリームついてんぞ」とハンカチを差し出している。あっちもあっちで順調なようだ。
「……湊くん、かっこよかった」
俺の胸の中で、奏羽が上目遣いで呟いた。
「鹿を追い払っただけだろ」
「ううん。……やっぱり、湊くんはわたしのナイト様だよ」
彼女は照れくさそうに微笑むと、俺の指に自分の指をしっかりと絡め直した。
恋人繋ぎ。もう、誰に見られようと離す気はないらしい。
* * *
夕方。旅館に戻ってきた俺たちは、大浴場で汗を流し、大広間での夕食を終えた。
時刻は夜の八時半。
いよいよ、あの「作戦」の時間が近づいていた。
部屋に戻る途中、廊下の曲がり角ですれ違いざま、結衣が俺にウインクを投げかけてきた。
そして、その少し後ろを歩いていた奏羽が、俺の目を見つめ、こっそりと人差し指を立ててみせた。
『あとでね』という、無言の合図。
浴衣姿の彼女のうなじが、ほんのり桜色に染まっていた。
だが、男子の大部屋に戻った俺を待ち受けていたのは——。
「よーし野郎ども! 今夜は修学旅行最後の夜だ! 誰一人として寝かせねぇからな! オールで大富豪だァァァッ!!」
浴衣の帯を鉢巻のように頭に巻き、ギラギラとした目でトランプを構える陸の姿だった。
(……チッ、最大の障害はこいつか)
深夜十一時半、消灯後。
足湯で待つ愛しい彼女の元へ向かうための、俺の「脱出劇」が幕を開けようとしていた。




