第142話:旅支度と、離れ離れの予行練習
修学旅行の前夜。
俺たちのマンションのリビングには、開け放たれた二つの大きなキャリーケースが並んでいた。
「……なぁ、奏羽。二泊三日だよな? なんでそんなに荷物が多いんだ?」
俺が呆れ顔で尋ねると、奏羽は自分のキャリーケースの上に正座し、体重をかけてチャックを閉めようと奮闘していた。
「だ、だって! 予備のパジャマに、ヘアアイロンに、湊くんとお揃いの部屋着に……あ、あと、足湯用のタオルも可愛いのがいいかなって……」
「おい、足湯って口に出すなよ」
俺が慌ててリビングの奥に視線を向けると、ソファでアイスを食べていた翠が、スッと目を細めてこちらを振り返った。
「……へぇー? 足湯ねぇ。修学旅行のしおりに、そんな日程書いてあったっけ?」
「ひゃぅっ!?」
奏羽が分かりやすく肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして固まった。
高校一年生になったばかりの妹だが、その観察眼の鋭さは相変わらずだ。
「……白々しいわね。どうせ、旅館の消灯時間の後に二人で抜け出す計画でも立ててるんでしょ」
「ち、違うもん! ただ、自由行動の時に寄れたらいいなって思っただけで……っ!」
必死に手を振って否定する奏羽の横で、翠は「はぁ」と大きなため息をついた。
「言っとくけど、見つかったら即・保護者呼び出しだからね。凪瀬のお母様にバレたら、せっかくの同棲生活も一発で強制終了だよ? ……まあ、どうしても抜け出したいなら、班員の陸くんや結衣さんを味方につけて、しっかりアリバイ作っときなよ」
「えっ……?」
意外な助言に、俺と奏羽が目を丸くすると、翠は最後の一口を飲み込み、ニヤリと笑った。
「私はお兄ちゃんたちがバカやって海外に引き離されるのは困るの。毎日の美味しいご飯が食べられなくなるからね。……だから、やるなら完璧にやりなさいってこと」
「……お前、本当に誰の味方なんだか」
俺が苦笑いすると、翠は「おやすみー」とヒラヒラ手を振って自分の部屋へ戻っていった。
* * *
荷造りを終え、リビングの明かりを消した夜の十一時。
明日は朝六時に東京駅集合だというのに、俺たちの寝室には、どこか名残惜しそうな空気が漂っていた。
「……湊くん」
布団に潜り込んできた奏羽が、俺のパジャマの胸元をぎゅっと握りしめてきた。
その瞳は、暗闇の中でも分かるほど、潤んで寂しげに揺れている。
「どうした? 早く寝ないと、明日起きられないぞ」
「うん……わかってる。でも……明日から二日間、夜、湊くんの隣にいられないんだなって思ったら……」
奏羽は俺の胸に顔をすり寄せ、甘ったるい声を漏らした。
「湊くんの匂いも、トントンも、あったかい腕の中も……全部ないんだよ? わたし、本当に一人で眠れるのかな……」
不安そうに眉を下げる彼女。
不眠症を克服しつつあるとはいえ、完全に一人で眠る夜は、彼女にとって数ヶ月ぶりなのだ。
「大丈夫だよ。俺の声が聞きたくなったら、消灯前にメッセージでも通話でもしてくれればいい。……それに、二日目の夜は、抜け出す約束だろ?」
俺が耳元で囁くと、奏羽の顔がパッと明るくなった。
「うんっ! 絶対に抜け出す! 誰にも見つからないように、湊くんのところへ行くからね!」
「ああ。楽しみにしてるよ」
俺が彼女の頭を優しく撫でると、奏羽は「えへへ」と嬉しそうに目を細め、俺の首にぎゅっと腕を回してきた。
「……じゃあ、明日からの二日分……今夜、いっぱいいっぱい充電させて?」
「……お前、明日の朝起きられなくなっても知らないぞ」
「いいの。湊くんが起こしてくれるもん」
彼女の柔らかい唇が、俺の唇にそっと重なった。
明日から始まる、非日常の修学旅行。
離れ離れの夜を前に、俺たちは互いの温もりを骨の髄まで染み込ませるように、深く、甘い前夜の時間を溶かしていくのだった。




