第140話:秘密の共有と、引退の先にある未来
若葉が嵐のように去り、静寂が戻ったキッチン。
俺と奏羽は並んで立ち、夕飯の生姜焼きの準備を進めていた。
「……湊くん。キャベツの千切り、わたし、すっごく上手にできたよ!」
「おお、見せてみろ。……って、これ、千切りじゃなくて角切りじゃないか?」
「むー! 食べ応えがあっていいでしょ!」
プクッと頬を膨らませる奏羽の頭をポンポンと撫でてやりながら、俺はフライパンに豚肉を並べた。
タレが焦げる香ばしい匂いが立ち上り、リビングのソファからは「お兄ちゃん、お肉多めでよろしくー!」と翠の呑気な声が飛んでくる。
「あはは、本当に若葉ちゃん、台風みたいな子だったね」
奏羽が俺の隣でキャベツを皿に盛り付けながら、クスクスと笑った。
「まったくだ。でも、あいつにバレたおかげで、学校でもコソコソ隠れる必要は少し減ったかもな」
「うん。……なんだか、肩の荷が少し下りた気がする」
奏羽は嬉しそうに微笑み、俺のエプロンの裾を指先でちょこんと摘まんだ。
秘密を共有する仲間が一人増えたこと。それは、彼女にとって小さな、けれど確かな安心感に繋がったようだった。
* * *
夕食を終え、翠が「明日の小テストの勉強するから!」と自室に引きこもった夜の十一時。
リビングの明かりを少し落とし、俺と奏羽はソファで並んで温かいほうじ茶を飲んでいた。
「……ふぅ。なんか、今日は色々と濃い一日だったね」
奏羽がマグカップをテーブルに置き、コテンと俺の肩に頭を預けてきた。
「そうだな。若葉に尾行された時はどうなるかと思ったけど……あいつ、根は本当に良い奴だな」
「うん。わたしのこと、あんなに憧れてくれてて……すごく嬉しかった。……でもね」
奏羽は俺のTシャツの袖口を指先で弄りながら、ぽつりと呟いた。
「若葉ちゃんが生徒会に入ってくれたら、わたし、安心して引退できるなって思ったの」
「……引退、か」
三年生の六月。もう二ヶ月もすれば、生徒会の役員選挙が行われ、奏羽たちは正式に後輩たちへバトンを渡すことになる。
入学してからずっと、名門・凪瀬家の重圧と「完璧な生徒会長」という仮面を背負い続けてきた彼女が、その肩書きを下ろす時が近づいているのだ。
「……寂しいか?」
俺が尋ねると、奏羽は首を横に振った。
そして、俺の胸元に顔をすり寄せて、甘ったるい声を漏らした。
「ううん。……寂しくないよ。だって、生徒会長じゃなくなったら、放課後も、お昼休みも……ぜーんぶ、湊くんと一緒にいられるもん」
「……お前、本当にそればっかりだな」
「だって、湊くん不足で死にそうになる日、もう嫌なんだもん」
奏羽は上目遣いで俺を見つめ、俺の首に両腕を回してきた。
薄暗い間接照明の光の中、彼女の瞳がトロンと熱を帯びていく。
「……生徒会長じゃなくなったら、ただの『湊くんの彼女』になるんだよ? ……そしたら、もっともっと、湊くんに甘えてもいい?」
「……今でも十分すぎるくらい甘えてるだろ」
俺が苦笑いすると、奏羽は「もっとだよ」と小悪魔のように微笑んだ。
「……湊くん。そろそろ、ベッド行こ? ……今日も、トントンして?」
彼女の柔らかい身体を抱き上げ、俺たちは寝室へと向かった。
シーツの中に滑り込み、奏羽の細い背中に手を回す。
トントン、トントン、と一定のリズムを刻むと、奏羽は安心しきったように息を吐き、俺のパジャマの胸元をぎゅっと握りしめた。
「……湊くん、大好き……」
「ああ。俺もだよ」
俺が彼女の額にそっとキスを落とすと、奏羽は幸せそうに口角を上げ、すぐに静かな寝息を立て始めた。
不眠症で夜に怯えていたあの頃が、遠い昔のように思える。
生徒会長としての重責を背負う日も、あと少し。
その先にある、誰にも邪魔されない二人の未来を思い描きながら、俺は腕の中の温もりを強く抱きしめ、静かに目を閉じた。




