第139話:番犬の絶叫と、リビングの事情聴取
「……あ、風森翠さん!?」
マンションのエントランスから出てきた翠の顔を見るなり、若葉が目を見開いて声を上げた。
「ん? ……あぁ、1年C組の白石さんじゃん」
翠は手にしたゴミ袋をゴミステーションに放り込むと、腕を組んで若葉と俺たちを交互に見比べた。
どうやら、同じ1年生同士、すでにクラスか学年集会などで顔見知りだったらしい。
「白石さん、うちのお兄ちゃんと奏羽さんに何の用? 二人のイチャイチャ下校の邪魔しちゃダメだよー」
「い、イチャイチャ……!? え、ちょっと待って、風森翠さん……風森先輩のこと、今『お兄ちゃん』って言った!?」
若葉の頭から湯気が出そうなほど、彼女の脳内処理が追いついていないのが見て取れた。
「風森」という同じ苗字、同じマンションから出てきた事実、そして買い物袋を持った俺と奏羽。
「じゃあ……風森先輩と、風森翠さんは兄妹で……そして、凪瀬会長は……」
「うん。うちのお兄ちゃんとお付き合いしてて、親公認でここで一緒に暮らしてるよ」
翠があっさりと特大の爆弾を投下した。
「ぎゃああああああっ!!」
夕暮れの住宅街に、若葉の悲鳴にも似た絶叫が響き渡った。
通行人が何事かと振り返る。
「お、おい白石、大声を出すな! 近所迷惑だろ!」
「近所迷惑どころじゃないです! 私の! 私の憧れの凪瀬会長が! こんな地味な男と同棲してるなんてぇぇぇっ!!」
「わ、若葉ちゃん、落ち着いて……っ!」
パニックになった若葉をこのまま路上で放置するわけにもいかず、俺たちはひとまず、彼女を部屋の中へと連行することになった。
* * *
数分後。
俺のマンションのリビング。
ダイニングテーブルには、冷たい麦茶を前にして放心状態になっている若葉が座っていた。
「……信じられません」
若葉は、部屋の中をキョロキョロと見渡しながら、震える声で呟いた。
「玄関にお揃いのスニーカーがあって、リビングにはお揃いのマグカップ……。それに、あの壁にかかってるカレンダーの『湊くんのお誕生日』って可愛い文字……あれ、完全に会長の字ですよね……?」
「う、うん……」
隣に座る奏羽は、すっかり縮こまって俺の制服の袖口をぎゅっと握りしめている。
生徒会長としての威厳など微塵もない、ただの恥ずかしがり屋な女の子の姿だ。
「……白石さん。驚いたのは分かるけど、俺たちは別にやましいことをしてるわけじゃないんだ。奏羽のお母さんからも、条件付きで認められてるしな」
俺が丁寧に説明すると、若葉は悔しそうに唇を噛み締め、机に突っ伏した。
「うぅ……私の『孤高で気高い氷の生徒会長』の幻想が……音を立てて崩れていく……っ」
「まあまあ、白石さん。お茶でも飲んで落ち着きなよ」
翠がニヤニヤしながら、お茶請けのクッキーを差し出す。
完全にこの状況を楽しんでいる顔だ。
「……でも、会長」
若葉がゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で奏羽を見つめた。
「風森先輩のどこがそんなにいいんですか? 生徒会役員でもないし、見た目も普通だし……」
「白石、お前さっきから失礼すぎないか?」
俺のツッコミを無視して、奏羽は少しだけ困ったように微笑み、そして俺の袖を握る手にきゅっと力を込めた。
「……湊くんはね、世界で一番優しいの。わたしがプレッシャーで夜も眠れなくて、苦しくてたまらなかった時……湊くんだけが、わたしを助けてくれたんだよ」
「え……?」
「わたしが完璧じゃなくても、ダメなところがいっぱいあっても、湊くんはずっと隣で受け止めてくれた。……だから、わたしには湊くんが必要なの。湊くんがいないと、わたし、息もできなくなっちゃうんだもん」
奏羽の真っ直ぐで、重すぎるほどの愛の告白。
若葉は息を呑み、言葉を失った。
「……そ、そんなに好きなんですか」
「うん。世界で一番、大好き」
奏羽は恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、はっきりと答えて、俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
その無防備で幸せそうな寝顔に近い表情を見て、若葉は深いため息をつき、ガックリと肩を落とした。
「……はぁ。完全に、手遅れですね」
「手遅れって言うな」
若葉は残りの麦茶を一気に飲み干すと、スッと立ち上がり、俺をビシッと指差した。
「……分かりました、風森先輩! お二人の関係は、とりあえず理解しました!」
「お、おう……」
「ですが! 私はまだ先輩を認めたわけじゃありませんからね! 会長を泣かせたり、少しでも傷つけたりしたら、私が生徒会を挙げて先輩を学園から追放しますから!」
「……肝に銘じておくよ」
ぷりぷりと怒りながらも、どこか吹っ切れた様子の若葉。
こうして、俺たちの「秘密の同棲生活」は、新入生の番犬にも完全に知れ渡ることとなったのだが——。
「……さて。邪魔者も落ち着いたことだし、夕飯作ろっか、湊くん」
「そうだな。キャベツの千切り、頼むぞ」
俺の腕にすり寄ってくる愛しい彼女の温もりに、俺は苦笑いしながら、キッチンへと向かうのだった。




