第135話:先輩の旅立ちと、引き継がれたお守り
クリニックでの受診から数日後。
奏羽の睡眠状態は、俺の毎晩の「思い出語り」と薬のサポートにより、劇的に改善していた。
四月に入り、春休みも残すところあと数日となったある日の午後。
俺と奏羽は、新学期に向けた文房具を買いに、駅前のショッピングモールを歩いていた。
当然のように、奏羽の右手は俺の左手にしっかりと絡められ、恋人繋ぎのままだ。
「……ねえ湊くん、このノート可愛くない?」
「お前、三年生になってもウサギ柄のノート使う気か?」
「いいの! わたしのお気に入りだもん」
奏羽がふくらませた頬を俺が指でつついていると、不意に、背後から落ち着いた声が響いた。
「——相変わらず、仲が良いわね。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい」
「えっ……?」
振り返ると、そこには春らしい淡い色のトレンチコートを着た、柚原栞先輩が立っていた。
彼女は先月、学園を卒業したばかりだ。私服姿を見るのは新鮮で、以前よりもずっと大人びて見えた。
「柚原先輩!?」
「先輩……お久しぶりです」
俺と奏羽が驚いて声を上げると、栞先輩は「ふふっ」と優しく微笑んだ。
「久しぶり。……二人とも、新学期の準備?」
「はい。先輩は、お買い物ですか?」
「ええ。来週から大学生になるから、少し買い出しをね。……ちょうど良かったわ。風森くんたちに、渡したいものがあったの」
栞先輩は、持っていた紙袋の中から、一冊の古い本を取り出し、俺に手渡した。
「これ……宮沢賢治の童話集ですね」
俺が受け取ると、栞先輩はウインクをして見せた。
「図書室の蔵書整理の時に、廃棄処分になる予定だったものよ。……奏羽ちゃんの『特別なお薬』でしょう? だから、風森くんに持っていてほしくて」
「……っ」
俺と奏羽は顔を見合わせた。
「先輩……俺たちのこと、ずっと……」
「図書室の主を甘く見ないでちょうだい。……孤高の生徒会長が、日に日にポンコツになっていく姿も。それを必死に隠そうとしてる風森くんの姿も、一番特等席で見ていたんだから」
栞先輩はいたずらっぽく笑った後、少しだけ真面目な顔になり、奏羽の頭をそっと撫でた。
「奏羽ちゃん。……色々と大変なこともあったみたいだけど、風森くんという最高のナイトを見つけて、本当に良かったわね」
「先輩……っ。本当に、今まで……ありがとうございました」
奏羽の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「泣かないの。……風森くん。奏羽ちゃんのこと、これからもよろしくね」
「はい。絶対に、守り抜きます」
俺が力強く答えると、栞先輩は満足そうに頷いた。
「じゃあ、私は行くわね。……あ、そうだ。せっかくだから、連絡先交換しておきましょ。何かあったら、いつでも相談に乗るわよ」
俺たちはスマホを取り出し、栞先輩と連絡先を交換した。
「それじゃ、またね。二人とも、三年生楽しんで」
先輩はヒラヒラと手を振り、人混みの中へと消えていった。
俺たちの秘密を一番近くで見守り、守ってくれた先輩の背中。
少しの寂しさを感じながら、俺は手の中の童話集と、奏羽の手を強く握りしめた。
* * *
そして迎えた、春休み最終日の夜。
明日の始業式に備え、俺たちは早めにベッドに入っていた。
(もちろん、奏羽は俺のベッドに潜り込んできている)
「……湊くん。明日から、三年生だね」
布団の中で、奏羽が俺のパジャマの胸元をぎゅっと握りしめながら呟いた。
「ああ。クラス替え、一緒だといいな」
「うんっ! 絶対一緒がいい!」
奏羽は俺の胸にスリスリと顔を擦り寄せ、甘ったるい声を出す。
「……今日、柚原先輩に会えて嬉しかったな」
「そうだな。図書室のあの場所は、これからも俺たちの特等席だ」
俺は、枕元に置いた宮沢賢治の童話集をそっと撫でた。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「……三年生になったら、もっといっぱい、思い出作ろうね。……修学旅行も、体育祭も……」
奏羽の瞳が、暗闇の中で潤んで光っている。
「完璧」を求められ、孤独だった彼女が、今こうして俺との未来を楽しみにしている。その事実が、俺の胸を熱くさせた。
「ああ。……どこまでも一緒にいこう」
俺は彼女の額にそっとキスを落とした。
「……んふふ。おやすみなさい、わたしの湊くん……」
奏羽は幸せそうに目を閉じ、すぐに静かな寝息を立て始めた。
俺は彼女のサラサラな髪を撫でながら、明日から始まる新しい学年に思いを馳せた。
最高学年。受験。生徒会の引退。
そして、このポンコツで甘えん坊なお姫様との、終わらない日常。
俺たちの「三年生編」は、桜の蕾がほころぶ春の空気と共に、静かに幕を開けようとしていた。




