第134話:クリニックの診断と、新しい薬
「失礼します」
俺がドアを開けると、奏羽は俺の背中に隠れるようにして、おずおずと診察室へと足を踏み入れた。
そこには、白衣を着た穏やかな顔つきの初老の男性医師が座っていた。
「こんにちは、凪瀬さん。……そちらは、彼氏さんかな?」
医師が温かい声で尋ねると、奏羽は顔を真っ赤にしてコクリと頷いた。
「同席してもよろしいでしょうか。彼女、少し緊張しているみたいで」
「ええ、もちろん構いませんよ。どうぞ、かけてください」
促されるまま、俺たちは並んでパイプ椅子に腰を下ろした。
奏羽は俺のコートの袖を、指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
俺も、彼女がどんな診断を下されるのか、心臓が早鐘のように鳴っていた。
「さて、凪瀬さん。問診票を拝見しました。……夜、うまく眠れない日が続いているとのことですね。最近、何か強いストレスを感じるような出来事はありましたか?」
医師の静かな問いかけに、奏羽は言葉を詰まらせた。
生徒会長としての重圧、親からのプレッシャー、そして先日の生徒総会での極限状態。
それらを他人に説明するのは、彼女にとって「完璧だった自分」を否定するようで、勇気のいることだった。
「……あの、俺から説明してもいいですか?」
見かねた俺が口を挟むと、医師は「どうぞ」と頷いた。
俺は、彼女が背負ってきた重圧と、文化祭や生徒総会での出来事、そして昨夜フラッシュバックを起こしたことまで、できるだけ客観的に、しかし彼女を庇うように説明した。
話を聞き終えた医師は、深く頷き、カルテにいくつかペンを走らせた。
「——なるほど。状況はよく分かりました」
医師の言葉に、俺と奏羽はゴクリと息を呑んだ。
「診断としては、『心因性の軽度な睡眠障害、および急性ストレス反応』といったところでしょう」
「急性ストレス反応……」
「ええ。全校集会という大舞台での極度のプレッシャーが引き金となり、過去の『完璧でなければならない』という強迫観念が、一時的にフラッシュバックしている状態です。……凪瀬さん、貴女はとても責任感が強い方ですからね。心が少し、悲鳴を上げているんですよ」
医師の優しい言葉に、奏羽の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「わたし……病気、なんですね……」
「病気というより、心の捻挫のようなものです」
医師は微笑み、俺と奏羽の「繋がれた手(袖口)」に視線を向けた。
「それに、貴女には一番近くで安心させてくれる立派なサポーターがいる。……今回は、不安を和らげて眠りに入りやすくする、ごく軽いお薬を出しておきましょう。眠る前に飲んで、リラックスできる環境を作ってくださいね」
「……はい、ありがとうございます」
奏羽が深く頭を下げると、医師は最後に俺に向かって言った。
「彼氏さん。彼女は今、とても繊細な状態です。……彼女が安心できる環境作りを、どうか手伝ってあげてください」
「はい。絶対に守ります」
俺が力強く答えると、医師は満足そうに頷いた。
* * *
クリニックを出ると、春の少し冷たい風が頬を撫でた。
奏羽は処方箋の入った紙袋を抱きしめ、ホッとしたような、でもまだ少し不安そうな顔をしていた。
「……湊くん。わたし、またお薬に頼らないとダメになっちゃった」
「そんなことないさ。先生も『心の捻挫』って言ってたろ? 捻挫したら湿布を貼るのと同じだ。……無理せずに休ませるのが一番なんだから」
俺が彼女の頭をポンポンと撫でると、奏羽は「えへへ」と嬉しそうに目を細め、俺の腕にギュッとしがみついてきた。
「……湊くんが一緒に行ってくれたから、先生とお話しできたよ。ありがとう」
* * *
その日の夜。
夕食と入浴を済ませた後、俺たちはリビングのソファに並んで座っていた。
医師からの「リラックスできる環境を」というアドバイスに従い、テレビを消し、部屋の照明を少し落として、間接照明だけの薄暗い空間を作った。
「……湊くん、お薬飲んだよ」
「よし。じゃあ、あとはリラックスするだけだな」
俺が両腕を広げると、奏羽は待ってましたとばかりに俺の胸に飛び込んできた。
俺は彼女の背中を、一定のリズムで優しく「トントン」と叩き始める。
「……やっぱり、湊くんの『よしよし』が一番のお薬かも」
奏羽が、俺のパジャマの胸元に顔を押し付けながら甘ったるい声を出す。
「お前、お医者さんに怒られるぞ」
「だって本当だもん。……ねえ、湊くん。今日は、お話読んでくれないの?」
奏羽が上目遣いで聞いてくる。
だが、俺は今日、少し違うアプローチを試してみることにした。
「……今日は、本は読まない」
「えっ?」
「本の世界じゃなくて、俺たちの『現実』の話をしよう。……楽しいことだけを思い出すんだ」
俺は彼女の髪を撫でながら、静かに語り始めた。
俺と奏羽の「甘い思い出」を、一つ一つ、ゆっくりとしたトーンで。
「覚えてるか? 文化祭の時、お化け屋敷の死角で隠れてた時のこと」
「……っ! も、もちろん覚えてるよ。あの時、湊くんが急に……」
「お前が誘ってきたんだろ。あの時の俺、心臓爆発するかと思ったぞ」
俺が笑いながら言うと、奏羽は「わたしだって、すっごくドキドキしたんだから……」と顔を真っ赤にして俺の胸に顔を埋めた。
「……わたし、湊くんと一緒にいる時間、全部宝物だよ」
奏羽の声が、薬の効き目もあってか、次第に穏やかで、微睡みを帯びたものに変わっていく。
俺の胸の中で、奏羽の呼吸が完全に落ち着き、とても安らかな寝息へと変わった。
(……よし。今日はちゃんと眠れたな)
俺は彼女の寝顔を見つめながら、小さく安堵の息を吐いた。
専門医の力も借りながら、俺なりの「甘やかし」で彼女の心を癒していく。
この静かな夜の時間は、俺にとってもかけがえのないものになっていた。




