第13話:キスと、名前を呼ぶ声
「……引く、わけないだろ」
俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
凪瀬奏羽という少女は、無自覚に相手を誘う天才だ。あるいは、俺の前でだけは、そうなることを選んでいるのか。
彼女は俺の言葉を聞くと、安心したように、それでいてどこか挑発的な笑みを浮かべた。
「……湊くん。わたし、ずっと……湊くんと、こんなふうになりたかったの」
彼女はゆっくりと、俺の首筋に腕を回した。
密着した体温。彼女の長い黒髪が、かすかに俺の頬をくすぐる。
図書室の窓の外では、放課後のオレンジ色が校庭を染め上げ、俺たちの鼓動を優しく包み込んでいた。
俺は躊躇いを捨て、彼女の細い腰に手を添えた。
彼女は拒むどころか、さらに深く俺の胸元に寄り添ってくる。
「凪瀬……奏羽」
名前を呼ぶと、彼女は「うん」と小さく応え、目を閉じた。
その睫毛が震えている。彼女もまた、緊張しているのだ。
ゆっくりと顔を近づける。
彼女の吐息が、甘いミルクティーのように鼻をくすぐる。
距離がゼロになるその瞬間、俺は彼女の唇に、そっと触れた。
「……っ」
驚きに目を見開いた後、彼女はすぐに、まるで慈しむように目を閉じた。
それは、昨日まで図書室で交わしていた朗読の響きよりも、ずっと深く、甘く、心臓を突き刺すような感覚だった。
唇を離すと、彼女は真っ赤な顔をして、俺のシャツをぎゅっと掴んだまま、荒い息をついていた。
普段のクールな生徒会長の面影は完全に消え去り、そこにはただの、恋に溺れた一人の女の子がいた。
「……湊くん」
「ん?」
「……もう一回。……もっと、湊くんのこと、ほしいの」
彼女はそう言うと、自分から俺の首筋に顔を埋め、独占欲を露わにするように強く抱きついてきた。
「……奏羽、俺もだ」
俺たちは再び、唇を重ねた。
今度は先ほどよりも長く、そして互いの存在を確かめ合うように。
図書室の奥、誰にも邪魔されない秘密の場所。
そこで俺たちは、ようやく「寝かしつけ係」という関係を卒業し、本物の恋人としての一歩を踏み出したのかもしれない。
* * *
数分後。
呼吸を整えた俺たちの間に、静かな余韻が流れていた。
「……奏羽」
「ん……?」
「……なんか、夢を見てるみたいだ」
俺がそう言うと、奏羽は小さく笑い、俺の右手を握りしめた。
「夢じゃないよ。……湊くんは、わたしのものだもん」
彼女の瞳には、かつての「絶対零度」の冷たさなど微塵もなく、ただ溶けそうなほどの熱だけが宿っていた。
俺の右腕の袖口を、今日もまた、彼女は離そうとしない。
「湊くん、ねえ……このまま、図書室閉まるまで……こうしてていい?」
「……ああ。閉まるまで、ずっとここにいるよ」
俺たちは再び、重なり合うように座り込んだ。
これからは、二人で夜の孤独を分け合い、どんな夜だって二人で乗り越えていける。
そう確信した、放課後の出来事だった。
ただ——。
俺たちはまだ気づいていなかった。
この甘い関係を、学園中の誰もが、あるいは「あの人」が許してくれるはずがないということに。
図書室のカウンターの向こう側から、柚原先輩の「……ふふ、ようやくね」という小さな呟きが聞こえた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。




