第129話:あの密室と、理性の最終防衛線
夕飯を済ませ、翠が「明日も朝から塾だから寝るねー」と客間へ引き上げてから一時間後。
静まり返ったリビングで、俺と奏羽は二人、テレビの前に並んで座っていた。
「……湊くん」
テレビの音が小さく流れる中、奏羽が俺のTシャツの袖を、ツンツンと引っ張ってきた。
「ん?」
「……翠ちゃん、寝たみたいだね」
「ああ。明日の登校日もあるし、俺たちもそろそろ寝るか」
俺が立ち上がろうとすると、奏羽は俺の腕にギュッとしがみつき、上目遣いで俺を見上げてきた。
「……キッチンの時の約束、忘れてないよね?」
「……っ」
彼女の潤んだ瞳と、微かに熱を帯びた声。
忘れるはずがない。あの時、俺は「続きは夜に俺の部屋で」と、自分から提案してしまったのだから。
「……わかってる。でも、本当にいいのか?」
「いいよ。……わたし、湊くんに全部あげたいって言ったでしょ」
奏羽の真っ直ぐな言葉に、俺は観念して彼女の手を引いた。
* * *
俺の寝室(今は俺が一人で使っている部屋)。
ドアを閉め、小さな間接照明だけをつけると、部屋の中はオレンジ色の淡い光に包まれた。
「……湊くん、心臓、すごくうるさいね」
ベッドの端に腰を下ろした俺の隣に座り、奏羽が俺の胸に耳を当ててクスクスと笑う。
「当たり前だろ。……お前は緊張してないのかよ」
「してるよ。でも、それ以上に……湊くんと、もっと近付けるのが嬉しいの」
奏羽はゆっくりと顔を上げ、俺の首に腕を回してきた。
俺は彼女の細い腰を抱き寄せ、そのまま彼女をベッドの上にそっと押し倒した。
「……奏羽」
「ん……湊、くん……」
重なり合う唇。
キッチンでのキスよりも、さらに深く、熱を帯びた口づけ。
彼女の柔らかい身体が、シーツに沈み込む。
俺の左腕に、彼女の左手の薬指にはめられたペアリングが、ひんやりと触れた。
俺は彼女の薄手のニットの裾に手をかけ、ゆっくりと引き上げようとした。
奏羽の身体がビクンと跳ね、彼女は俺の背中の服をぎゅっと握りしめる。
「……んっ……ぁ……」
静かな寝室に、彼女の甘い吐息と、衣擦れの音だけが響く。
俺の理性の防波堤は、もうほとんど決壊しかけていた。
(……このまま、最後まで……)
俺が彼女の肌に直接触れようとした、まさにその時。
——ブブッ、ブブッ。
俺のズボンのポケットで、スマホがけたたましいバイブレーションの音を立てた。
「「……っ!?」」
俺と奏羽は、バネで弾かれたように身体を離した。
「な、なんだ!? こんな夜中に……」
俺は慌ててスマホを取り出した。
画面には、見慣れた名前が表示されている。
『一条 零』
「……零さんから?」
俺が画面を見せると、奏羽は「えっ!?」と顔を青ざめさせた。
「電話……出た方がいいよね?」
「ああ。こんな時間に電話してくるなんて、よっぽどの緊急事態だ」
俺はベッドから降り、呼吸を整えてから通話ボタンを押した。
「……もしもし、零さんですか? こんな夜更けにどうしたんですか?」
『……風森さん。単刀直入に言います』
電話の向こうから聞こえる零さんの声は、氷のように冷たく、そしてどこか切羽詰まったような響きを含んでいた。
『明日の登校日。……冴木が、生徒総会で会長の不信任案を提出する動きを見せています』
「……不信任案!?」
俺の大きな声に、ベッドの上の奏羽がビクッと肩を揺らした。
『ええ。期末テストで彼に勝ったとはいえ、彼を支持する一部の特進クラスの生徒たちが、「同棲疑惑」を再び蒸し返し、生徒会長としての品格を問うつもりのようです。……明日、彼らは全校生徒の前で、決着をつける気です』
「そんな……。全校集会で、あんなに堂々と宣言したのに、まだ諦めてないんですか」
『精密機械は、一度のバグでは止まりません。……風森さん、会長は起きていますか? 明日は、今までで最大の試練になります』
「……はい、起きてます。必ず、明日も彼女の隣で戦います」
俺が力強く答えると、零さんは「……期待していますよ」とだけ言い残し、電話を切った。
俺がスマホを下ろすと、奏羽が不安そうな顔で俺を見上げていた。
「……湊くん。零、なんて言ってたの?」
「……奏羽」
俺はベッドに戻り、彼女の手を強く握りしめた。
「明日の登校日。……冴木が、お前の不信任案を出そうとしてるらしい」
「えっ……」
「でも、心配するな。俺が絶対に守るから」
俺が彼女の目を見てはっきりと言うと、奏羽は少しだけ震えながらも、「うんっ」と力強く頷いた。
「……わたし、負けない。湊くんが隣にいてくれるなら、どんな試練でも乗り越えられるもん」
俺たちは、そのままベッドの上で強く抱きしめ合った。
甘い時間の「続き」は、予期せぬ嵐の知らせによって完全に吹き飛んでしまった。
だが、互いの温もりを感じ合うこの時間だけは、どんな妨害にも壊せない確かなものだった。
「……奏羽、今日はもう寝よう。明日に備えて」
「うん……。おやすみなさい、湊くん」
俺は彼女の額にそっとキスを落とし、彼女を自分の部屋(客間)へと送り出した。
明日の登校日。
特進クラスの精密機械・冴木洵との、本当の意味での「最終決戦」が、いよいよ幕を開けようとしていた。




