第127話:夕暮れのキッチンと、背中越しの攻防
テーブルの下での攻防(という名の一方的な甘やかし)に耐え抜き、ようやく午後の勉強タイムが終了した。
「……ふぅ。お兄ちゃん、奏羽さん、お疲れー」
翠が単語帳を閉じ、大きく伸びをする。
「お疲れ、翠。……奏羽も、よく頑張ったな」
「うんっ! 湊くんの教え方が上手だから、すごく捗ったよ」
奏羽は嬉しそうに俺の腕に絡みつき、ようやくテーブルの下から足を引いてくれた。
俺は心の中で安堵の息を吐きながら、冷や汗を拭った。
「さて、私はちょっとコンビニ行ってくる。アイス食べたい気分だし」
翠が財布を手に立ち上がる。
「気をつけてな」
「はーい。……あ、お兄ちゃんたち、私がいないからって変なことしちゃダメだからね!」
翠はニヤリと悪戯っぽく笑い、玄関のドアを閉めて出ていった。
リビングには、俺と奏羽の二人が残された。
西日が差し込む部屋は、どこかオレンジ色に染まっていて、静かで甘い空気が漂っている。
「……翠ちゃん、行っちゃったね」
奏羽が、俺の腕にしがみついたまま、少しだけ上目遣いで俺を見つめてきた。
テーブルの下での一件を思い出し、俺の心臓が再び早鐘を打つ。
「……奏羽、お前さっきから……」
「ん? なぁに?」
とぼけるように小首を傾げる彼女に、俺はため息をついた。
「いや、なんでもない。……そろそろ夕飯の準備するか。今日は俺が作る番だし」
「あ、わたしもお手伝いする!」
俺が立ち上がると、奏羽もパタパタとついてきて、キッチンに並んで立った。
「……じゃあ、そっちの野菜洗ってくれるか?」
「はーい」
奏羽は俺の大きめのエプロンを身につけ、楽しそうに野菜を洗い始めた。
春の柔らかな日差しの中、二人でキッチンに立つ。
まるで新婚夫婦のような光景に、俺は無意識に頬を緩ませていた。
だが、平穏な時間は長くは続かなかった。
「……湊くん」
野菜を洗い終えた奏羽が、背後から俺の腰に両腕を回し、ピタリと背中に抱きついてきた。
「ちょ、奏羽! 今、火使ってるから危ないぞ!」
「大丈夫。湊くんの邪魔はしないから……」
奏羽は俺の背中に顔を押し付け、深呼吸をするように俺の匂いを嗅いでいる。
彼女の柔らかい胸の感触が、薄手のニット越しに背中へダイレクトに伝わってくる。
テーブルの下での足の絡み合いに続き、今度はバックハグだ。
「……お前、本当に今日はどうしたんだよ。昨日の夜『ギリギリまで甘えさせて』って言ってたけど、これ、全然ギリギリじゃないだろ」
俺が少しだけ声を荒げると、奏羽は俺の背中でフルフルと首を振った。
「……だって、湊くんが『余裕ない』って言ってくれたから。……もっと、湊くんをドキドキさせたいの」
「……だからって、料理中にやることかよ」
「……湊くんは、ドキドキしてないの?」
奏羽の小さな声が、俺の背中越しに響いた。
ドキドキしていないわけがない。むしろ、心臓が爆発しそうなほどだ。
「……してるよ。お前がくっついてくるだけで、俺の理性はいつだってギリギリなんだから」
俺が本音をこぼすと、奏羽は「えへへ……」と嬉しそうに笑い、さらに俺の背中に強く抱きついてきた。
「……湊くん」
「ん?」
「……翠ちゃんが帰ってくるまで、あと十五分くらいあるよね」
奏羽の声が、一段と甘く、熱を帯びたものに変わった。
俺の腰に回された彼女の腕が、少しずつ、ゆっくりと俺の胸の方へと上がってくる。
「……火、止めて?」
耳元で囁かれたその言葉に、俺の理性の防波堤は音を立てて崩れ去った。
俺はコンロの火を止め、ゆっくりと振り返った。
夕日に照らされた奏羽の顔は、昨日の夜と同じように、真っ赤に染まり、潤んだ瞳で俺を見つめている。
「……後悔しても知らないぞ」
「後悔なんて、しないよ」
俺は彼女の細い腰を抱き寄せ、そのままキッチンカウンターに軽く押し付けるようにして、深く唇を重ねた。
「……んっ……ぁ……」
静かなキッチンに、リップ音だけが響く。
野菜の匂いも、夕飯の準備も、全てが遠くへと消え去っていく。
俺たちは、翠が帰ってくるまでの限られた時間の中で、ギリギリの攻防戦の「延長戦」へと足を踏み入れていた。




