第126話:春の補習と、机の下の秘密
俺と奏羽の「限界確認」の翌日。
翠の考案した春休みスケジュールは、相変わらず順調……とは言い難い状況で進んでいた。
「……湊くん。ここの微分、どうしてこういう展開になるの?」
午後二時。リビングのテーブル。
午前中の自習を終え、俺が先生役となって奏羽に勉強を教える時間だ。
だが、今日の奏羽は、昨日までの「不自然な距離」が嘘のように、俺の左腕に自分の右肩をピタリと密着させている。
「……あー、そこはだな。この公式を使って……」
俺がノートに数式を書き込もうとすると、奏羽は「うんうん」と相槌を打ちながら、俺の顔を至近距離でじっと見つめてくる。
彼女は俺の大きめのパーカーを脱ぎ、春らしい薄手のニットにショートパンツという軽装だ。シャンプーの甘い香りと、彼女の息遣いが直接首筋にかかり、俺の集中力は著しく低下していた。
(……『ギリギリまで甘えさせて』って、こういうことかよ)
昨日の寝室でのキスの熱がフラッシュバックし、俺は必死に顔の熱を冷まそうと咳払いをした。
「……奏羽、近い。ノートが見えないだろ」
「えー? ちゃんとノートも見てるよ? でも、湊くんの横顔の方がかっこいいから、つい見とれちゃうの」
奏羽は悪びれる様子もなく、俺が着ているパーカーの袖口を指先でくるくると弄り始めた。
「……お兄ちゃん、奏羽さん。私、目の前で日本史の暗記やってるんだけど。……気が散るからイチャつくなら向こうでやってくれない?」
向かいの席で単語帳を開いていた翠が、ジト目で俺たちを睨みつけてきた。
「い、イチャついてない! これは真面目な勉強だ!」
俺が慌てて否定すると、翠は「へぇー」と鼻で笑った。
「奏羽さんのお兄ちゃんへの『好き好きオーラ』がダダ漏れで、私まで甘い匂いに酔いそうなんですけど。……奏羽さん、お兄ちゃんのどこがそんなにいいの?」
翠の不躾な質問に、奏羽は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにふんわりと微笑んだ。
「……全部だよ。湊くんは、わたしが一番苦しかった時に、何も聞かずにずっとそばにいてくれた。……だから、わたしは湊くんに全部あげたいの。わたしの時間も、心も、全部」
その真っ直ぐすぎる告白に、俺の顔は完全に沸騰した。
翠もさすがに面食らったのか、「……ごちそうさま。お兄ちゃんにはもったいないわ」と肩をすくめて単語帳に視線を戻した。
「……ほら、奏羽。手が止まってるぞ。次の問題解け」
俺が照れ隠しに少し強めに言うと、奏羽は「はーい」と元気よく返事をして、再びノートに向かった。
だが、彼女の「ギリギリの甘え」は、それだけでは終わらなかった。
カリカリとシャーペンを走らせる音が響く中、不意に俺の左足に、何か柔らかいものが触れた。
(……ん?)
テーブルの下。
奏羽の右足が、ショートパンツから伸びた素足のまま、俺の足にそっと絡みついてきたのだ。
「……っ!!」
俺は驚いて思わず声を上げそうになったが、向かいには翠がいる。
不自然な反応を見せれば、すぐに「不健全認定」されてしまう。
俺が横目で奏羽を睨むと、彼女はノートから視線を外さず、涼しい顔で数式を解き続けていた。
だが、テーブルの下では、彼女の足の指先が、俺の足首からふくらはぎへと、ゆっくりと這うように動いている。
(……こいつ、翠がいるのを利用して、俺をからかってるな……!?)
俺の心臓は、昨日の夜とは違う意味でバクバクと鳴り始めた。
足元から伝わる彼女の体温と、柔らかい感触。
俺が少しだけ足を引こうとすると、彼女は逃がさないと言わんばかりに、さらに強く足を絡め合わせてくる。
「……お兄ちゃん、なんか顔赤いよ? 暖房効きすぎ?」
翠が不思議そうに聞いてくる。
「あ、いや……ちょっと厚着しすぎたかもな。問題ない」
俺は必死に平静を装いながら、額に滲む汗を拭った。
「湊くん、この問題解けたよ。……合ってるかな?」
奏羽が、テーブルの下で俺の足に自分の足を擦り付けながら、上目遣いでノートを差し出してきた。
その小悪魔のような微笑みに、俺は完全に敗北を悟った。
「……ああ。完璧だ」
春休みの午後。
妹というストッパーがいながらも、俺たちの「ギリギリの攻防戦」は、テーブルの下という見えない死角で、さらに熱く、そして焦れったく展開していくのだった。




