第124話:避けられる指先と、募る焦燥
翌朝。
俺がキッチンで朝食の準備をしていると、寝室から着替えを終えた奏羽が出てきた。
「……おはよう、湊くん」
「おはよう。よく眠れたか?」
俺がわざとらしく尋ねると、奏羽は一瞬だけ目を泳がせ、ぎこちなく笑った。
「う、うん。ぐっすりだったよ。……あ、お皿並べるの手伝うね」
彼女は俺の横をすり抜けるようにして食器棚へ向かう。
以前なら、朝の挨拶代わりに背中から抱きついてきたり、俺のエプロンの紐を直すふりをして身体を密着させたりしてきたはずなのに。今日の彼女は、俺の肩が触れそうになると、スッと自然な動作で距離を取った。
(……やっぱり、避けられてる)
俺の胸の奥で、じわりと焦りが広がる。
朝食の席でも、午前中の自習タイムでも、奏羽は俺と「一定の距離」を保ち続けた。
会話は普通に成立している。笑顔も向けてくれる。ただ、絶対に物理的な接触だけは避けているのだ。
「……お兄ちゃん、なんか顔怖いよ。数学の問題に親でも殺されたの?」
昼食後、俺が一人でリビングのテーブルで参考書を睨みつけていると、翠が呆れたように声をかけてきた。
奏羽は「ちょっと買い出しに行ってくるね」と、一人でスーパーへ出かけてしまっている。
「……翠。お前、奏羽が最近おかしい理由、何か知ってるか?」
俺が単刀直入に聞くと、翠は一瞬だけピタッと動きを止め、それから「さぁ? 何のことか全然わかんないけど」と白々しく視線を逸らした。
「嘘つけ。お前、絶対に何か知ってるだろ。……あいつ、俺に触れるのを嫌がってるみたいなんだ」
俺が真剣な顔で詰め寄ると、翠は大きなため息をつき、俺の向かいの席にドカッと座った。
「……お兄ちゃんって、本当にそういうところ鈍感だよね」
「鈍感?」
「奏羽さんがお兄ちゃんを嫌いになるわけないじゃん。むしろ逆だよ」
翠は腕を組み、俺をジロリと睨みつけた。
「あのさ、ホワイトデーの日に、お兄ちゃんが奏羽さんにペアリング渡したでしょ?」
「ああ。それがどうしたんだ?」
「……奏羽さんね、あの指輪をもらってから、お兄ちゃんに対する『好き』の限界値がおかしくなってるの」
翠の言葉に、俺は首を傾げた。
「あのね、奏羽さん、お兄ちゃんに触れられると、本当に理性が飛んじゃいそうなんだって。……お母様との『風紀を乱すな』っていう約束があるから、ギリギリで踏みとどまってるけど、これ以上お兄ちゃんの匂いとか体温を感じたら……自分が自分じゃなくなるのが怖いって、この前こっそり私に相談してきたの」
「……っ!」
俺の脳天を、ハンマーで殴られたような衝撃が走った。
「奏羽さんは、お兄ちゃんを避けてるんじゃない。……自分を抑え込むために、必死に距離を置いてるだけ。お兄ちゃんのことが好きすぎて、どうにかなっちゃいそうだから我慢してるのよ」
翠の呆れたような、けれどどこか羨むような言葉に、俺の心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされた。
俺を嫌っているわけではなかった。
むしろ、俺への想いが強すぎるがゆえの、彼女なりの必死の防衛線だったのだ。
「……なんだよ、それ。……馬鹿じゃないのか、あいつ」
俺は顔を覆い、深く息を吐き出した。
安堵と同時に、俺の中にある感情がどす黒く、そして熱く燃え上がり始めていた。
(……俺だって、我慢してるんだぞ)
俺が毎日、どんな思いで彼女の甘い誘惑や、無防備な寝顔に耐えてきたと思っているのか。
俺だけが理性を削られていると思っていたが、彼女もまた、俺と同じように限界と戦っていたのだ。
「……お兄ちゃん。奏羽さんが帰ってくるまで、もう少し時間あるけど。……どうするつもり?」
翠が面白がるように聞いてくる。
「……決まってるだろ。あいつのその勝手な防衛線、ぶっ壊してやる」
俺は立ち上がり、彼女が帰ってくる玄関の方を真っ直ぐに見据えた。
「風紀を乱すな」という凪瀬夫人の条件は絶対だ。
だが、互いに触れたいと渇望しているのに、無理に距離を置くことなど、俺には到底耐えられなかった。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー……湊くん、翠ちゃん、アイス買ってきたよー」
何も知らない奏羽が、ビニール袋を提げてリビングに入ってくる。
俺は彼女の前に無言で立ちふさがり、その細い手首をガシッと掴んだ。
「ひゃっ……! み、湊くん……?」
「……奏羽。少し、俺の部屋に来い」
俺は彼女の抵抗を許さず、そのまま彼女の手を引いて、寝室へと強引に連れ込んだ。
背後で、翠が「おーおー、お熱いことで」と呟くのが聞こえた気がしたが、今の俺にはどうでもよかった。
俺と奏羽の、限界を迎えた理性の攻防戦が、密室でついに火蓋を切った。




