第123話:甘えの禁止令と、見えない壁
春休みが始まってから数日。
翠の提案による「午前は自習、午後は俺が奏羽に教える」というスケジュールは、思いのほか順調に進んでいた。
「……だから、この公式を使う時は、ここの符号の反転に気をつけないといけないんだ」
「なるほど……! 湊くん、説明すごく分かりやすい! わたし、特進の授業より頭に入るかも」
リビングのテーブルで、俺がホワイトボード代わりに使っているノートを指差すと、奏羽は目をキラキラさせて頷いた。
俺に「教わる」というシチュエーションが新鮮で嬉しいのか、彼女のモチベーションは非常に高い。
「じゃあ、この類題を解いてみてくれ」
「うんっ!」
奏羽がシャーペンを握り、ノートに向かう。
その左手の薬指には、俺が贈ったペアリングが光っている。
俺は彼女の真剣な横顔を眺めながら、ふと、ある違和感に気がついた。
(……最近、奏羽からくっついてこないな)
同棲が始まってからというもの、勉強中であっても彼女は俺の左腕に自分の右肩を密着させたり、袖を掴んだりと、何かしらのスキンシップを図ってくるのが常だった。
しかし、春休みに入ってから、彼女は俺と一定の距離——肩が触れ合わないギリギリの距離——を保って勉強している。
夜、リビングでテレビを見ている時も、以前のように俺の膝の上に寝転がってくることはなく、少し離れたクッションを抱きしめているだけだ。
「……奏羽」
「ん? どうしたの、湊くん?」
ノートから顔を上げた彼女の笑顔は、いつもと変わらない。
「いや……その、最近、ちょっと距離遠くないか? 翠が監視してるから遠慮してるのか?」
俺が遠回しに尋ねると、奏羽はピクッと肩を震わせ、少しだけ視線を逸らした。
「そ、そんなことないよ! ほら、ちゃんと近くにいるし……!」
彼女は誤魔化すように少しだけ椅子を寄せてきたが、やはり俺の身体には触れようとしない。
「……本当に?」
「ほんと! ……あ、わたし、お茶淹れてくるね!」
奏羽は慌てて立ち上がり、キッチンへと逃げ込んでしまった。
俺は残されたノートを見つめながら、首を傾げた。
(……何か、俺、怒らせるようなことしたか?)
* * *
その日の夜。
翠が早々に客間へ引き上げ、リビングには俺と奏羽の二人が残された。
いつもなら、ここからが「ご褒美(充電)」の時間だ。
「……奏羽、こっち来いよ」
俺がソファで隣のスペースをポンポンと叩くと、奏羽は少しだけ躊躇うように立ち止まった。
「……湊くん、ごめんね。わたし、今日はもう寝るね」
「えっ? まだ十時だぞ。……本当に体調悪いのか?」
俺が心配して立ち上がろうとすると、奏羽は「大丈夫!」と大きく両手を振った。
「体調は万全! ただ、明日も勉強あるし、早く寝ようかなって……。おやすみなさい、湊くん!」
彼女は逃げるように足早に廊下へ向かい、俺の寝室のドアをバタンと閉めてしまった。
「……おいおい、嘘だろ」
残された俺は、一人きりのリビングで呆然と立ち尽くした。
あんなに「湊くんの匂いがないと眠れない」と言っていた彼女が、自分から一人で寝室へ行ってしまったのだ。
不眠症が完全に治った証拠だと言えば喜ばしいことだが、俺の心には、どうしようもない寂しさと焦燥感が渦巻いていた。
(……絶対に、何か隠してるな)
俺はソファに深く沈み込み、ため息をついた。
彼女が俺を避ける理由。
それが何であれ、このまま放置しておくわけにはいかない。
俺は彼女の本音を聞き出すため、明日、ある行動に出ることを決意した。
一方、寝室のベッドに一人潜り込んだ奏羽は、俺の匂いが染み付いた枕を強く抱きしめ、真っ赤な顔で荒い息を繰り返していた。
「……だめ。……わたし、これ以上湊くんに触れたら……もっと、我慢できなくなっちゃう……っ」
彼女の左手の薬指で、ペアリングが冷たく光る。
完璧な生徒会長の理性は、俺が思っている以上に、限界ギリギリのところで軋み音を立てていたのだった。




