第121話:ホワイトデーの夜と、外せない指輪
マンションに帰宅し、玄関のドアを閉めた瞬間。
「……湊くん」
奏羽は靴を脱ぐなり、俺のコートの胸ぐらを掴んで、背伸びをして唇を重ねてきた。
「んっ……」
外の冷たい空気から一転、暖房の効いた玄関で交わされる熱いキス。
彼女の左手には、先ほどはめたばかりのシルバーのペアリングが光っている。それが俺の背中に回されるたび、ひんやりとした金属の感触が、俺の理性を激しく揺さぶった。
「……奏羽、ちょっと待て。ここは玄関だぞ」
俺が少しだけ身体を離して窘めると、奏羽は不満そうに唇を尖らせた。
「だって、翠ちゃんが帰ってくる前に、いっぱい『お返し』してもらわないと……」
「お前なぁ……。ほら、とりあえずコート脱いで、リビングに行こう」
俺は彼女をなだめすかしてリビングへ向かい、ソファに腰を下ろした。
だが、奏羽は当然のように俺の膝の上に跨るようにして座り込み、再び俺の首に腕を回してきた。
「……ねえ、湊くん。この指輪、ずっと外したくないな」
奏羽は自分の左手を俺の目の前にかざし、幸せそうに微笑んだ。
「でも、学校では外さないとダメだろ。零さんに没収されるぞ」
「うぅ……それは嫌だ。じゃあ、学校にいる間はチェーンに通して、ネックレスにして服の中に隠しておく」
彼女は真剣な顔でそんな提案をしてきた。
「……そこまでして身につけてたいのか?」
「当たり前だよ。だってこれ、湊くんがわたしのこと『お姫様』だって認めてくれた証だもん」
奏羽は俺の胸に顔を埋め、スリスリと擦り寄せてくる。
完璧な生徒会長の面影は微塵もなく、ただ俺の愛情を渇望する一人の女の子の姿がそこにあった。
「……よしよし。わかったから、そんなに擦り寄るな」
俺がいつものように背中をトントンと叩こうとすると、奏羽は俺の手を止め、自分の指を絡ませてきた。
恋人繋ぎ。互いの薬指にあるリングが、カチャリと小さな音を立てる。
「……『よしよし』じゃなくて。今日は、彼氏の『ご褒美』がいい」
「……本当に、お前は小悪魔だな」
俺は観念し、彼女の細い腰に腕を回して、再び深く唇を重ねた。
「……んっ……ぁ……」
静かなリビングに、リップ音だけが響く。
ホワイトデーのお返しという名目の、甘すぎる時間。
お揃いの指輪が、俺たちの関係がもう「ただの同棲」や「不眠症の治療」ではないことを、確かな重みをもって証明してくれていた。
「——ただいまー。って、うわっ」
その時、玄関からガチャリとドアが開く音がして、翠の声が響いた。
「「……っ!!」」
俺と奏羽は、バネで弾かれたように身体を離し、ソファの端と端に移動して不自然に正座した。
「……お兄ちゃんたち、私が『夜まで帰らない』って言ったからって、玄関の鍵もかけずに何やってんのよ」
リビングに現れた翠は、呆れ果てたようにため息をついた。
その手には、カラオケ帰りの荷物と、コンビニの袋が握られている。
「み、翠……お前、帰るの早すぎないか!?」
「友達が門限厳しい子だったの。……それにしても、奏羽さん、顔真っ赤だけど? お兄ちゃんに変なことされてない?」
「さ、されてないよ! わたしが、湊くんに……っ」
奏羽は慌てて言い訳をしようとしたが、自分の左手の薬指に光る指輪を見て、さらに顔を赤くして俺の背中に隠れてしまった。
「……ふーん。ペアリングねぇ。まあ、テストも終わったし、ホワイトデーくらいは許してあげるけど」
翠はニヤリと悪戯っぽく笑い、コンビニ袋からアイスを取り出した。
「でも、明日からはまた私の『監視』が再開するからね。……お兄ちゃん、油断しないように」
最強のストッパー(妹)の帰還。
俺たちの甘すぎるホワイトデーは、翠の呆れ顔によって強制終了となったが、左手に残る指輪の感触だけは、誰にも奪えない確かな温もりとして、俺たちの心に深く刻み込まれていた。




