第119話:世界で一番甘いチョコレート
夕日が差し込む、誰もいない生徒会室。
俺の目の前には、大きめのパーカーとエプロン姿の奏羽が、手作りのトリュフチョコを唇に咥えたまま、背伸びをして顔を近づけてきている。
「……っ」
俺の心臓が、早鐘のように激しく打ち鳴らされる。
逃げ場はない。いや、逃げる気など微塵もない。
俺は彼女の細い腰に手を回し、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が触れ合う瞬間、カカオの甘い香りがふわりと広がった。
俺がそっとチョコを口に含むと、奏羽はそのまま唇を離さず、深く、甘く、熱いキスへと移行してきた。
「……んっ……ぁ……」
チョコレートが溶けていく感触と、彼女の柔らかな舌の感触が混じり合う。
口の中いっぱいに広がるのは、チョコの甘さなのか、それとも彼女の愛情の甘さなのか、もう俺には判断できなかった。
「……ぷはっ……」
長い口づけの後、奏羽は俺の胸に顔を埋め、荒い息を繰り返した。
その顔は、夕日のせいだけではなく、茹でダコのように真っ赤に染まっている。
「……湊くん。チョコ、美味しかった……?」
上目遣いで、恥ずかしそうに聞いてくる。
「……ああ。俺の人生で食べた中で、一番甘くて美味しいチョコだった」
俺が正直に答えると、奏羽は「えへへ」と幸せそうに笑い、俺の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「よかったぁ……。これ、お家で何回も練習したんだよ。……指、いっぱい火傷しちゃったけど、湊くんが美味しいって言ってくれたから、全部報われたの」
「奏羽……」
俺は、彼女の絆創膏だらけの指先をそっと取り、一つ一つに軽くキスを落とした。
「俺のために、本当にありがとう。……でも、来年からは絶対に一緒に作ろうな。お前が怪我するのは、やっぱり俺、嫌だから」
「……うんっ。約束する」
俺たちは再び強く抱きしめ合い、生徒会室の静かな空間で、互いの体温と鼓動を感じ合っていた。
「——コホン」
その時、背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「……っ!」
俺と奏羽が慌てて身体を離して振り返ると、そこには腕を組み、冷ややかな視線を送ってくる一条副会長(零さん)と、ニヤニヤ笑っている書記の結衣が立っていた。
「れ、零さん……! 結衣ちゃんも……!」
「全く……。鍵もかけずに白昼堂々と、風紀もへったくれもあったものではありませんね」
零さんが眼鏡を押し上げ、ため息をつく。
「いやー、ごちそうさま! 会長のあの『口移し作戦』、私が入れ知恵した甲斐があったわー!」
結衣が親指を立ててウィンクをしてきた。
「ちょ、結衣ちゃん! 言わないでって約束したのに……っ!」
奏羽は顔から火が出るほど赤くなり、俺の背中に隠れるようにしてしゃがみ込んでしまった。
「お前が入れ知恵したのかよ……」
俺が呆れてツッコミを入れると、結衣はケラケラと笑った。
「だって、あの二人の純情っぷり見てたら、少しは背中押してあげたくなるじゃん? ……それにしても、風森くんも隅に置けないねぇ」
「うるさい」
「……さて。イチャつくのはそれくらいにして、片付けを始めますよ。チャリティー販売の売上計算がまだ残っていますからね」
零さんの鶴の一声で、バレンタインの甘い時間は強制終了となった。
* * *
その日の夜。
マンションに帰宅した俺たちは、翠がリビングでテレビを見ている横で、二人並んでコタツに入っていた。
「……そういえば、湊くん」
コタツの中で、奏羽が俺の手に自分の指を絡ませながら、小さな声で聞いてきた。
「ん?」
「来月はホワイトデーだね。……湊くん、わたしに何お返ししてくれるの?」
「気が早いな。……でも、楽しみにしてていいぞ。お前の期待を裏切らないもの、用意するから」
俺が自信ありげに言うと、奏羽は「ほんと!?」と目を輝かせ、俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
「……じゃあ、わたし、ホワイトデーまでずっと、良い子にして待ってるね」
「ああ」
コタツの温もりと、甘いチョコレートの余韻。
俺たちの冬は、バレンタインという一大イベントを経て、さらに深く、そして温かく過ぎていくのだった。




