第118話:バレンタインの喧騒と、お姫様の焦らし
二月十四日、バレンタインデー当日。
朝の学園は、明らかに普段とは違う、そわそわとした空気に包まれていた。
女子はカバンの中に隠したチョコの渡し方をヒソヒソと相談し、男子は「俺には関係ない」という顔をしながらも、机の中や下駄箱を不自然に確認している。
「……湊、お前はいいよな。どうせ放課後、会長から特大のチョコもらうの確定してんだから」
朝のホームルーム前、陸が恨めしそうに俺の机に突っ伏していた。
「まあ、そうかもしれないけど……。実は、朝起きたら奏羽がいなくてさ」
俺が苦笑いしながら答えると、陸はガバッと顔を上げた。
「は!? お前ら同棲してんのに、朝一緒に来なかったのかよ!」
「ああ。起きたら『生徒会の準備があるから先に行くね』ってメモが残されててさ」
俺が起きた時、キッチンには俺の分の朝食がラップをかけて置かれていたが、奏羽の姿はなかった。
客間で寝ていた翠も「お姉ちゃん、すっごく早起きして出て行ったよー」と眠そうに言っていた。
(……昨日の夜も、俺が寝た後にキッチンで何かやってたみたいだしな)
おそらく、今日俺に渡すチョコレートの最終仕上げをしていたのだろう。
俺がそのいじらしい姿を想像して頬を緩ませていると、陸は「けっ、リア充爆発しろ」と吐き捨てて自分の席へ戻っていった。
* * *
昼休み。
生徒会主催の「バレンタイン・チャリティー販売」が中庭で開催され、特設ブースには長蛇の列ができていた。
「いらっしゃいませ! チャリティーチョコ、一つ五百円でーす!」
売り子をしている結衣の元気な声が響く。
俺は裏方として、段ボールからチョコを補充する作業を手伝っていた。
「……風森さん。手が止まっていますよ」
隣で会計係の津々屋と一緒に売上金を計算していた零さんが、眼鏡を押し上げて俺を睨んだ。
「すみません、零さん。……あの、奏羽は?」
俺が尋ねると、零さんはふっと小さく息を吐いた。
「会長なら、今、生徒会室で『最後の仕上げ』をしています。……今日は朝からずっとそわそわしていて、全く使い物になりませんからね。貴方へのプレゼントのことで頭がいっぱいなのでしょう」
「最後の仕上げ、ですか」
「ええ。……風森さん、放課後は必ず生徒会室へ来なさい。彼女の努力の結晶を、しかと受け止める義務が貴方にはあります」
零さんの言葉に、俺は力強く頷いた。
* * *
そして、待ちに待った放課後。
俺は逸る気持ちを抑えながら、旧校舎の生徒会室へと向かった。
ドアの前に立ち、小さく深呼吸をしてからノックをする。
「……奏羽、入るぞ」
ドアを開けると、そこには——。
「……湊、くん……」
夕日が差し込む生徒会室の中央で、奏羽が立っていた。
彼女は、いつもの制服姿ではなく、なぜか俺の大きめパーカーを羽織り、その下にフリルのついたエプロンを身につけていた。
「か、奏羽……? お前、なんでそんな格好……」
「えっと、その……」
奏羽は顔を真っ赤にして俯き、背中に隠していた小さな箱を、両手でそっと差し出してきた。
「ハッピーバレンタイン、湊くん。……これ、わたしからの、本命チョコ」
可愛らしいリボンがかけられた、小さな箱。
俺はそれを受け取り、そっと開けた。
中には、少しだけ形が不揃いな、でも一生懸命作られたことが伝わってくる、手作りのトリュフチョコが並んでいた。
「……ありがとう、奏羽。すごく嬉しいよ」
俺が微笑むと、奏羽はパァッと顔を輝かせ、しかしすぐにまたモジモジとスカートの裾を握りしめた。
「あのね、湊くん。……チョコ、今食べてくれる?」
「今? ああ、もちろん」
俺が一つ手に取り、口に運ぼうとしたその瞬間。
「——待って」
奏羽が、俺の手首をそっと掴んだ。
そして、上目遣いで、とびきり甘い、小悪魔のような笑顔を見せた。
「……せっかくのバレンタインだもん。……わたしが、直接『あーん』して、食べさせてあげる」
「えっ……」
奏羽は俺の手からトリュフを取り上げると、自分の口元へ持っていき——。
そして、そのチョコを、自分の唇の間に軽く咥えたのだ。
「……っ!!」
俺の思考が、完全に停止した。
夕日が差し込む、誰もいない生徒会室。
俺のパーカーとエプロン姿の彼女が、チョコを口に咥えたまま、俺に向かって背伸びをしてくる。
「……湊くん」
彼女の甘い吐息が、至近距離で俺を捕らえた。
バレンタインの本当の「ご褒美」が、今、俺の唇へと届けられようとしていた。




