第117話:バレンタイン前日と、予想外の来訪者
バレンタインデー前日の、二月十三日。
学園は明日の「決戦」に向けて、どこかそわそわとした、浮ついた空気に包まれていた。
「……湊、お前はいいよな。明日どうせ会長から特大のチョコもらうの確定してんだから」
昼休み、俺の前の席で陸が恨めしそうにため息をついている。
「まぁな。……でも、奏羽は生徒会のバレンタインイベントの準備で、今週はずっと忙しそうだったから、無理してないといいんだけど」
俺が苦笑いして答えると、陸は「余裕のある奴のセリフは腹が立つぜ」と弁当を勢いよくかき込んだ。
放課後。
俺は図書室の仕事を終わらせ、生徒会室へと向かった。
明日のイベント「バレンタイン・チャリティー販売」の最終確認で、生徒会役員たちは総出で作業しているはずだ。
「失礼します」
ドアを開けると、部屋の中には大量の段ボール(販売用のチョコや装飾品)が積まれ、その奥で零さんと結衣、津々屋がバタバタと走り回っていた。
「あ、風森くん! お疲れー!」
結衣が段ボールを運びながら声をかけてくる。
「お疲れ様です。……奏羽は?」
俺が部屋を見渡すが、彼女の姿はない。
「会長なら、さっき急なお客さんが来て、応接室に行ってるわよ」
零さんがパソコンから顔を上げ、眼鏡を押し上げた。
「お客さん?」
「ええ。……どうやら、凪瀬家に関係する方らしいのですが。夫人からの事前の連絡もなかったので、少し厄介かもしれません」
零さんの言葉に、俺の胸がざわついた。
凪瀬家に関係する人物。
夫人は「交際を容認した」とはいえ、まだ完全に手放しで認めたわけではない。もし、俺たちの関係を快く思わない親族だとしたら。
「……様子を見てきてもいいですか?」
俺が尋ねると、零さんは少しだけ迷った後、「……騒ぎは起こさないでくださいね」と小さく頷いた。
* * *
俺は急いで応接室へと向かい、少し開いたドアの隙間から中を覗き込んだ。
そこには、ソファに背筋を伸ばして座る奏羽と、その対面に座る一人の初老の男性の姿があった。
仕立ての良いスーツを着こなし、白髪混じりの髪を綺麗に撫でつけている。その厳格そうな佇まいは、どこか凪瀬夫人を彷彿とさせた。
「……奏羽お嬢様。奥様からお話は伺っております。……一般家庭の男子生徒と同棲をしているなどと、正気の沙汰とは思えません」
初老の男性が、静かに、しかし冷酷な声で言い放った。
(……やっぱり、凪瀬家の親族か)
「……お祖父様」
奏羽が、少しだけ声を震わせて答えた。
お祖父様。つまり、凪瀬夫人の父親であり、奏羽の祖父にあたる人物か。
「私は、お母様からちゃんと許可をいただいています。……彼は、わたしにとって必要な人です」
「戯言を。……お前は凪瀬の次期当主となる身。そのような凡人との交際など、家名に泥を塗る行為に他ならない。……今すぐその男と別れ、本邸へ戻りなさい」
祖父の言葉は、夫人以上に冷たく、そして絶対的だった。
奏羽の肩が、小刻みに震えているのがわかる。
「……嫌です。わたしは、湊くんと離れません」
奏羽が必死に反論しようとするが、祖父は「ふん」と鼻で笑った。
「お前がそう言うのなら、私から直接その男に引導を渡してやりましょう。……彼がどれほどの覚悟を持っているのか、この目で確かめて……」
「——その必要はありません」
俺は、我慢できずに応接室のドアを押し開け、中へと足を踏み入れた。
「……湊くん!?」
奏羽が驚いて立ち上がる。
「おや。……君が、風森湊くんか」
祖父は俺を値踏みするように上から下まで見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「盗み聞きとは、随分と下品な真似を。……だが、手間が省けました。君から身を引いてくれるのなら、凪瀬家からそれなりの……」
「お断りします」
俺は、祖父の言葉を遮り、奏羽の隣に立って彼女の手をしっかりと握りしめた。
「俺は、彼女を誰にも渡すつもりはありません。……凪瀬の家名がどうとか、そんなものは関係ない。俺はただ、奏羽が笑って、安心して眠れる場所を守りたいだけです」
俺の真っ直ぐな言葉に、祖父は一瞬だけ目を丸くした。
そして、しばらくの間、俺と奏羽の繋がれた手を見つめていた。
「……ふむ。娘(凪瀬夫人)が『生意気だが、芯はある』と言っていた意味が、少し分かりましたよ」
祖父は、先ほどまでの冷酷な表情をスッと崩し、どこか楽しそうに、そして優しく微笑んだ。
「……え?」
俺と奏羽が顔を見合わせて戸惑っていると、祖父は立ち上がり、俺の肩をポンと叩いた。
「驚かせてすまなかったね。……私はただ、孫娘が選んだ男が、私の脅しに屈して逃げ出すような軟弱者でないか、試したかっただけなのだよ」
「た、試した……?」
「ええ。……奏羽、良い顔をするようになったね。昔の、人形のように笑わなかったお前とは大違いだ」
祖父は奏羽の頭を優しく撫でた。
「……お祖父様」
「風森くん。……娘の言う通り、奏羽のことは君に任せよう。……だが、泣かせたら承知しないぞ」
祖父は俺にウインクをし、そのまま応接室を出ていった。
嵐のように現れ、去っていった予想外の来訪者。
残された俺と奏羽は、しばらくの間呆然と立ち尽くしていたが、やがて顔を見合わせて、深く、長い安堵のため息を吐いた。
「……湊くん、手、すごく汗かいてるよ」
奏羽が、俺の右手を両手で包み込んでクスクスと笑う。
「そりゃ、寿命が縮むかと思ったからな。……でも、これで明日、心置きなくバレンタインを楽しめるな」
「うんっ!」
最大の障害だと思っていた親族の壁さえも、俺たちは絆で乗り越えた。
明日は、いよいよバレンタイン本番。
俺たちの甘すぎる一日は、もう目の前まで迫っていた。




