第116話:チョコレートの悲劇と、お姫様の秘密特訓
「……あいたっ!」
バレンタインデーまであと一週間と迫った、ある休日の午後。
俺のマンションのキッチンから、短い悲鳴が上がった。
「奏羽!? 大丈夫か!?」
俺がリビングから慌てて駆けつけると、そこにはエプロン姿の奏羽が、左手の人差し指を押さえて涙目になっていた。
まな板の上には、細かく刻まれかけた板チョコレートの残骸。
「あ、湊くん……ごめんなさい。チョコ切るの、難しくて……」
「指、切ったのか? 見せてみろ」
俺は彼女の手を取り、水で軽く洗い流してから、救急箱から絆創膏を取り出した。
幸い傷は浅かったが、彼女の指先には、クリスマスのマフラー編みの時と同じように、いくつもの小さな絆創膏が貼られていた。
「……お前、また無茶して。零さんと結衣の特訓だけじゃなくて、家でも練習してたのか?」
俺が絆創膏を貼りながら呆れて言うと、奏羽はしょんぼりと肩を落とした。
「だって……零たちの前だと、焦ってうまくできなくて。……湊くんに、ちゃんと美味しいチョコ、あげたいのに……」
不器用な彼女が、俺のために一生懸命に頑張ってくれている。
その気持ちだけで十分すぎるほど嬉しいのに、彼女は「完璧」を求めて一人で空回りしているようだった。
「……あのさ、奏羽」
「ん……?」
俺は彼女の絆創膏だらけの指先をそっと両手で包み込み、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、お前が作ったものなら、どんな形でも、どんな味でも、世界で一番美味いと思って食べるよ。……でも、お前が怪我をしてまで作るのは、俺は嫌だ」
「湊くん……」
「だから、一緒に作ろう。……特訓じゃなくて、俺と二人で」
「えっ? でも、バレンタインのチョコは、女の子が一人で作って渡すものだし……」
奏羽が戸惑っていると、リビングのソファから「はぁ」と大きいため息が聞こえた。
「お兄ちゃん、本当に過保護だよねー。……奏羽さん、お兄ちゃんの言う通りにしなよ。お兄ちゃんと一緒にキッチンに立って、二人でイチャイチャしながらチョコ作る方が、奏羽さんも絶対楽しいでしょ?」
いつの間にか起きてきた翠が、テレビのリモコンを片手に呆れたように言った。
「み、翠ちゃん……」
「それに、お兄ちゃんが一緒にいれば、キッチンが爆発する心配もないしね」
翠の的確なツッコミに、奏羽は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「……わかった。奏羽、俺がサポートするから、もう一回だけ一緒にやってみよう」
「……うん。湊くん、ありがとう」
俺たちは再びキッチンに並んで立ち、ボウルに刻んだチョコレートを入れた。
「よし、じゃあ湯煎にかけるぞ。温度が高すぎると分離するから、ゆっくり混ぜてくれ」
「わかった。……こう?」
奏羽がゴムベラでゆっくりとチョコレートを混ぜる。
俺は彼女の背後に立ち、彼女の手をそっと上から包み込むようにして、ゴムベラの動きをサポートした。
「ひゃっ……湊、くん……」
「ほら、よそ見しない。焦げるぞ」
俺が彼女の耳元で囁くと、奏羽の顔はチョコレートよりも熱く溶けそうになっていた。
甘いチョコレートの香りが、キッチン中に広がっていく。
(……この特訓、俺の理性が試されるな)
バレンタイン本番まであと少し。
俺たちの甘すぎるチョコレート作りは、妹の呆れ顔をBGMにしながら、ゆっくりと、しかし確実に進行していくのだった。




