第103話:編み物の秘密と、夜のココア
マンションに帰り着き、俺が夕飯の準備をしている間。
奏羽は「ちょっと自習するね!」と言い残し、自分の部屋(客間)にこもってしまった。
(……きっと、逢坂が言っていた編み物をしているんだろうな)
俺はキッチンで野菜を切りながら、小さく微笑んだ。
普段なら、俺が料理をしていると「湊くんの匂いがする〜」と背中に張り付いてくる彼女が、今日は部屋から出てこない。
その健気な背中を想像するだけで、胸が温かくなる。
「……お兄ちゃん、なんかニヤニヤしてて気持ち悪い」
リビングのソファでテレビを見ていた翠が、呆れたようにジト目を向けてきた。
「気持ち悪いは余計だ。……翠、お前、最近奏羽が部屋で何してるか知ってるか?」
「え? あー……」
翠は少しだけ気まずそうに視線を逸らし、ポリポリと頬を掻いた。
「……まぁ、知ってるよ。夜な夜な、毛糸玉と死闘を繰り広げてるからね。この前なんか、編み目がほどけちゃって、半泣きになりながら私に泣きついてきたし」
「お前、手伝ってやってるのか?」
「仕方ないでしょ? あのままじゃ、クリスマスまでに『謎の毛玉のオブジェ』が完成しそうだったんだもん」
翠はため息をつきながらも、どこか楽しそうだった。
「でも、あんなに不器用なのに、絶対にお兄ちゃんのために作るって聞かないんだよね。……ホント、お兄ちゃんにはもったいないくらいの一途さだよ」
「……あぁ、そうだな」
俺は完成したシチューを器に盛り付けながら、改めて彼女の愛情の深さを噛み締めていた。
* * *
夕食後、俺たちはいつものようにリビングのテーブルで、期末テストの反省と冬休みの課題に取り組んでいた。
とはいえ、学力は依然として彼女の方が圧倒的に上だ。
「……奏羽、ここの英語の和訳、どうしてもしっくりこないんだけど」
「ん? あ、ここはね、この前置詞が後ろの節にかかってるから、こう訳すの」
奏羽が、俺のノートに身を乗り出して丁寧に解説してくれる。
彼女の指先が問題文をなぞるたび、いくつも貼られた小さな絆創膏が視界に入った。
「……なるほど、そういうことか。サンキュー。……って、奏羽、指どうしたんだ?」
俺がわざとらしく絆創膏を見つめると、奏羽はハッとして手を引っ込めた。
「えっ……あ、うん! ちょっと紙で切っちゃっただけだから! 全然痛くないよ!」
「……そうか。あまり無理するなよ」
俺がそれ以上追及せずにいると、奏羽はホッとしたように息を吐き、再びノートに向かった。
時計の針が夜の十一時を回った頃。
翠は「先に寝るねー」と自室へ戻り、リビングには俺と奏羽の二人が残された。
「……奏羽、そろそろ休憩にするか」
「うんっ。湊くん、お疲れ様」
俺が立ち上がってキッチンへ向かい、温かいココアを二つ淹れて戻ってくると、奏羽はソファに移動し、クッションを抱きしめてポヤポヤとしていた。
一日中生徒会の仕事と勉強、そして(秘密の)編み物に体力を使っていたのだろう。完全にエネルギーが切れかかっている。
「ほら、ココアだ。飲んで温まれ」
「……ありがと、湊くん」
奏羽はマグカップを両手で受け取り、ふうふうと息を吹きかけてから一口飲んだ。
そして、コテンと俺の肩に頭を預けてきた。
「……湊くんのココア、甘くて美味しい……」
「お前が甘党だから、砂糖多めにしてるんだよ」
俺が彼女の頭をそっと撫でると、奏羽は目を細め、俺のパジャマの袖をぎゅっと握りしめた。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「……クリスマス、楽しみだね」
奏羽の声は、眠気に微睡みながらも、確かな期待に満ちていた。
「ああ。俺も楽しみだよ。……お前と過ごす、初めてのクリスマスだからな」
「えへへ……。わたし、湊くんに喜んでもらえるように、いっぱい……がんばるね……」
コトリ、と。
奏羽の手から力が抜け、マグカップが俺の膝の上に傾きそうになる。
俺は慌てて彼女の手からマグカップを取り上げ、テーブルに置いた。
「……奏羽?」
覗き込むと、彼女は俺の肩に顔を埋めたまま、完全に夢の中へと落ちていた。
スヤスヤと規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……本当に、限界まで頑張ってたんだな」
俺は彼女の絆創膏だらけの指先に、そっと、触れるだけのキスを落とした。
不器用で、一生懸命で、俺のために無理をしてしまう愛おしい人。
「……おやすみ、奏羽。プレゼント、楽しみにしてるからな」
俺は彼女を起こさないようにそっと抱き上げ、客間のベッドへと運んだ。
窓の外では、今年初めての雪が、静かに舞い降り始めていた。
クリスマスまで、あと一週間。
俺たちの甘くて温かい冬の日は、ゆっくりと、確かな足音を立てて近づいていた。




