第92話『救いの手』
――俺たちは孤児だった。
ずっと小さい頃に親に捨てられ、今に至るまでずっとこの場所で過ごしてきた。
だから俺にとっての家族はここで過ごしてきた同じ境遇の人間だけだった。
俺たちが生活しているこの場所は『ひまわり』と呼ばれる児童養護施設。
俺のように親に捨てられた子ども、止むお得ない事情で預かられた子ども。そんな哀れな子ども達が集まる施設。
けれどほとんどは前者だ。
ここにいる子どものほとんどは親に捨てられている。
ある者は育てるお金が無いからと。
ある者は望まない子どもだったからと。
ある者は何の理由も聞かされずに捨てられた。
俺も理由も聞かされずに捨てられた一人だった。
俺は親の顔を知らない。
施設の人も俺の親の顔を知らないはずだった。
俺は雨の日に段ボールの中に入れられて施設の前に放置されていたらしい。
あと少しでも発見が遅れていたら死んでいたかもしれない――。そう聞かされた時は戦慄した。同時に顔も知らない親に対してひどく怒りを覚えた。
でも怒りをぶつけることなんてできない。
俺には親がいないのだから。ぶつけたくてもその相手がいなければ内側に留めることしかできない。
殺してやりたい――。
幼い頭でもその感情だけは芽吹いていた。
憎くてたまらない。
俺を捨てた親が憎くて憎くて憎くてたまらなかった。
もし今俺の親が目の前に現れようというなら、飛びかかって躊躇なく首筋を噛み砕いていたに違いない。
当時に俺は塞ぎ込んでいた。
施設の子達はおろか、職員の人とも話をしようとしなかった。
最初は何度か話しかけてきた子ども達も俺の素っ気ない態度に愛想つかしていつの日からか話しかけてこなくなった。
職員たちもそんな態度を取り続ける俺とどう接すればいいのか分からず困り果てていた。
『――ねぇ、どうして何も喋らないのかな?』
けれど彼女は――颯恋だけは違った。
颯恋はこの施設にいる中で一番年上だった。言ってしまえば俺たちのお姉さん的存在。そんな彼女が俺みたいな奴に話しかけてくるのは当たり前と言ったら当たり前だったのかもしれない。
俺がどんな態度を取ろうとも、毎日、朝昼晩欠かさず颯恋は話しかけてきた。
『今日もいい天気だねー。こんな日には外でのんびりまったり過ごしてもいいよね』
『……』
『日向ぼっこしながら本読んだり、お昼寝したり。きっと気持ちいいと思うんだ』
『……』
晴れの日はこんな会話を繰り返し――
『空がどんよりしてるね。太陽さんと喧嘩しちゃったのかな?』
『……』
『触らぬ神に祟りなし。こんな日はのんびり本読んだり、まったり昼寝するのがベストだね』
『……』
曇りの日は室内から今にも泣き出しそうな空を眺める。
『雨って嫌だよね。外で遊べないし、気分も沈んじゃうもん』
『……』
『でも室内でも出来ることはいっぱいあるからね。本読んだり、お昼寝したり』
『……』
雨の日はまた違った会話を繰り返す。
結局、どんな天気であろうと、颯恋の頭の中には本を読むか昼寝をするかの二択しか存在しないようだった。
颯恋はある程度俺に話しかけたら他の子ども達のところへ行ってしまう。
颯恋はみんなのお姉さんだから。
俺一人だけに構っていることはできないんだ。
けれどそんな彼女だからこそ、俺は心を開いたのかもしれない。
『外はいい天気だね。真っ白な雲ってふわふわしててすごく美味しそう。はーくんは今日も中にいるのかな?』
『……』
『うんうん。中もいいもんね。こうやって窓際に座って日向ぼっこしてるのも乙なものだよ』
隣に座っていた颯恋は、よっこらしょと立ち上がる。
壁にかけられている時計を見ると、いつも颯恋が他の子ども達のところへ行く時間になっていた。
『……はーくん?』
颯恋は動かなかった。
動くことができなかったのだ。
俺が颯恋の服の袖を掴んで、動けないようにしていたから。
『……』
颯恋は何も喋らずに俺を見下ろしていた。
そんな時間がどれくらい続いたのか。颯恋は再びよっこらしょと俺のとなりに腰を下ろした。
『うん。いいよ。今日は、はーくんと一緒にいるよ』
『……』
一緒にいてくれると聞いただけで胸がぽかぽかとあたたかくなっていく。
これが嬉しいという感情なのだと、俺は初めて知った。
颯恋が隣にいてくれるだけで心が満たされていく。
颯恋は俺を捨てた親とは違う。
颯恋はきっと俺という人間を新しく作り直してくれる。
俺の心は自分でも分かるほど壊れていた。それが颯恋と関わりあってからというもの、確実にいい方向に変わり始めた。
深い心の闇に閉じ込められていた俺を、颯恋という光が道を示してくれた。
俺は颯恋と一緒にいれば変わる事ができる。
親に対する怒りや殺意が消える訳では無いのは分かっている。
けれども確実に今よりはいい道を歩んでいくことができる。
『はーくん』
颯恋が俺の名を呼ぶ。
ゆっくりと振り向くと、颯恋は空を見上げて微笑んでいた。
空を見上げる瞳は蒼のように澄み渡っていて、一点の曇りもなかった。
『綺麗な空だよね。はーくんもそう思わない?』
『……』
俺は声に出して答えない代わりに、握ったままの颯恋の服の袖から手を離して、すぐ横の颯恋の手に触れた。
俺と大して変わらないのに、その手はとても大きく見えた。
『ふふっ。はーくんも綺麗だと思っているんだね。分かるよ。その手から伝わってくる』
颯恋の指が俺の手に絡まってくる。
俺たちは手を繋いでいた。
『これはね、恋人繋ぎっていうんだよ。私たちは恋人ではなくて家族だけどね。けれど、恋人も家族も、どっちも大切な存在だって事に変わりはないからこうして手を繋いでもバチは当たらないよ』
少し照れたように颯恋は笑う。
照れたと言うよりは、恥ずかしかったのかもしれない。
そんな気持ちが颯恋のあたたかい手から伝わってきた。
俺は男の子で、颯恋は女の子。
恋人同士になれる関係性。
けれども俺たちの関係が変わる事は無いのだろう。
まだお互い小さいからというのもある。でもそれ以前に俺たちは家族だから。家族が恋人になる事なんてありえない。
『恋って……何なんだろうね』
まっすぐに空を見つめていた颯恋の瞳がほんの一瞬だけ揺れたような気がした。
『私たちは誰かが恋をしたから産まれた。きっとそれは素晴らしいことなんだと思う。けれど結果的に私たちは捨てられてしまった。それはすごく悲しいことだけど、同時に嬉しくもあったんだよ』
いつの間にか、颯恋は空ではなく俺のことを見ていた。
この世の汚れを知らない純粋で透き通った瞳に吸い寄せられる。
『こうしてみんなと出会えた事は幸せだと思ってるよ』
小さな唇から紡がれる言葉からは純粋な好意だけを受け取ることができた。
そして、雨が上がった後の虹のように綺麗で、思わず見とれてしまう笑顔に俺は慌てて視線を逸らした。
『……』
心臓がバクバクと激しく鼓動している。
こんな気分になったのは初めてのことだった。
チラリと横目で颯恋を見ると、まだこちらに向いたまま笑顔を浮かべているようだった。
『ふふっ。はーくん、照れてるの?』
『……』
手を繋いだままだと、俺の感情はすべて颯恋に筒抜けになってしまう。
あまりの恥ずかしさに手を振りほどこうとするが、颯恋は握る手に故意に力を入れて繋いだままの状態を余儀なくされる。
『はーくんも男の子だね。それと……今のはーくんはすごく人間らしいよ』
『……』
『前までのはーくんは、なんて言うか……中身が空っぽで人間って感じがしなかったの。人形みたいだった。でもね、今日分かったの。私が他の子のところに行くのを自分の意思で引き止めて、自分から手を重ねてきて、こうして触れ合って――分かったの』
不意に手が解かれる。
颯恋のあたたかさが無くなっていく。
けれどそれは一瞬だけで、次の瞬間には颯恋のあたたかさで全身が包み込まれていた。
『うん。はーくんは人間だよ。こんなにもあったかいんだもん』
人に抱きしめてもらったのは初めてだった。
あたたかい。とてもあたたかい。太陽の光にも負けないくらいのあたたかさは身体から心にまで染み込んでくるようだった。
心地よかった。
誰かに抱きしめてもらえるのがこんなにも心地よいものだなんて知らなかった。
颯恋の香りをすぐそばで感じることができる。
優しくて、甘い、ホットケーキのような香り。あたたかくて、ふわふわする、そんな、颯恋だけのもつ特別な香り。
もう湧き上がってくる感情を抑え切ることができなかった。
目頭が熱くなって、口から嗚咽が漏れる。
夜中にこっそり起きて、夜空を見つめながら泣いたことはこれまでに何度も何度もあった。
だけど、誰かの前で泣いたのはこれが初めてのことだった。
『――もう大丈夫だよ、はーくん』
颯恋の優しい声が耳をくすぐる。
背中越しに伸ばされた手が俺の頭に置かれる。
『はーくんには施設のみんながいる。はーくんには私がいる。はーくんは一人じゃないんだよ。だから、安心していいんだよ』
ガラス細工を扱うように丁寧に。
けれど、自分はここにいると諭すように確かな存在感をもって俺の頭を撫でる。
『はーくんは強い。きっとここにいる誰よりも強い心を持っている。けどね、ずっと強がってなくてもいいの。こうやって今みたいに、誰かの胸で泣いたっていいんだよ』
俺は号泣した。
情けないくらい泣きじゃくった。
けれども颯恋は嫌な顔一つせずに俺のことを受け止めてくれた。
自分を理解してくれる人がいるのがたまらなく嬉しかった。
『……』
それからどれだけ時間が経ったのか。
気がついた時には日が傾いて、空はオレンジ色に染まっていた。
見える景色がすべて横向きになっている。俺は今どんな体勢でいるのだろうか。
『――目が覚めた?』
上から降ってきた声と、頬に当たる柔らかい感触から、俺は自分がどんな状態でいるのか察しがついた。
俺は今、颯恋に膝枕をしてもらっている。
『はーくん、泣き疲れて眠っちゃってたんだよ。さすがに抱きしめたままだと体勢が悪いから変えさせてもらったんだ。膝枕、嫌じゃなかった?』
『……』
『ふふっ。やっぱり何も答えてくれないんだ』
――違う。分からないんだ。
こういう時、なんて答えればいいのか分からないんだ。
ふと、右手のあたたかな感触に気づいた。
颯恋は俺が眠っている間もずっと手を繋いでくれていたのだ。
だからグッと握る手に力を込めた。
もしかしたら俺の伝えたいことが手を通して伝わるんじゃないかと思ったから。
『……はーくん?』
『……』
やっぱり、これだけじゃ伝わらなかった。
それもそうだ。手を繋ぐだけで意思疎通ができれば人間に言葉なんて必要はない。
諦めかけて手に込めた力を緩めた。
『――ありがとう』
『……え?』
俺はまじまじと颯恋を見た。
颯恋は相変わらず微笑んでいる。
それはまるで聖母のようで、優しさに満ち溢れていた。
『こういう時に言う言葉をきっと――ありがとう。なんじゃないかな?』
ああ。颯恋はやっぱり颯恋だ。
俺は嬉しかった。嬉しく嬉しくてたまらなくなった。
だから俺も颯恋と同じように笑うことにした。
笑っていればきっと、颯恋も嬉しいだろうから。
『……ありがとう、颯恋』
『はーくん……。ふふっ。どういたしまして』
ほら、やっぱり笑ってくれた。
笑顔を重ねる度にその明るさが、あたたかさが変わっていく。
『ねぇ、はーくん。明日、はーくんに紹介したい女の子がいるんだけど、会ってみないかな?』
『颯恋が言うなら会う』
『私じゃなくて、自分の意思で決めないと。そんなんだと何でも私に頼る事しか出来なくなっちゃうから』
『……会ってみる』
『うんうん。それでいいんだよ。大丈夫。向こうも悪い子ではないから。きっとはーくんと仲良くできると思うよ』
『……分かった』
颯恋が言うなら間違いはないはずだ。
それに俺自身、名前も顔も分からないその子のことが気になり始めていた。
『さてと……それじゃあ私はそろそろ夕飯の支度手伝わないとだから、ごめんね? どいてもらっても大丈夫かな?』
『……嫌だ』
『ええ……。ご飯食べれなくなってもいいの?』
『……』
俺は無言で体を起こした。
ご飯を人質に取られてしまったらもう諦めるしかない。
『ふふっ。いい子だね。今日の夕飯も美味しいの作るから、期待して待っていてね』
『うん。分かった』
颯恋は『ばいばい』と手を振って部屋から出ていった。
たった一人になってしまった部屋はあまりにも広く、そして寂しく感じた。
けれどそれはこの空間に一人だけというだけで、俺はもう独りではない。
颯恋が救い出してくれたから、俺はもう前を向いて歩んでいける。
『……ありがとう、颯恋』
もう一度、そう感謝の言葉を告げ、太陽の沈んていく空を夕飯の時間になるまで眺めていた。
to be continued
心音です。こんばんは。
今回のお話は隼人と颯恋の馴れ初めについてのものでした。
そして同時に隼人が孤児だということをはっきりさせた話でもあります。
次回のお話では結菜との馴れ初めに触れていく予定です。
それでは次のお話でお会いしましょう。




