第58話『Haruka End』
「……」
その朝の目覚めは想像していたものよりスッキリとしたものだった。自分の中で色々と決意できたという表れなのかもしれない。
「……眩しいな」
ベッドから起き上がってカーテンを開けると、眩しい陽射しが一瞬の間視界をホワイトアウトさせた。
徐々に晴れていく視界に青空が映る。
雲ひとつない青空――。空はどこまでも蒼く、遠くまで澄み渡っている。それはまるでこれから起こることを全て包み込み、ありのままを受け入れることができる巨大なキャンバスのようだった。
俺はそんな空から視線を逸らし、もう一度ベッドに倒れ込んだ。うつ伏せに倒れ込んだから白かった視界が再び黒く染まる。
このままもう一眠りしてしまいたい衝動に駆られるが、既に眠気は吹っ飛んでいて寝ることはおそらくできない気がした。
「素直に起きるか……。けどいくら何でも早すぎるんだよな……。なんでこんな時間に目覚めたんだか」
時刻は6時を過ぎたばかり。
普段学校に行く日よりも早い目覚めだ。
それはやはり今日のことがあるからなのか。
「……とりあえず着替えるか」
着るものを適当に選んで着替える。
特に眠くもないのに出てくる欠伸を噛み殺しながら俺はリビングに入った。
リビングには古宮の姿はない。まだ眠っているのだろう。
俺はリビングのカーテンを開けることなく、テーブルの上に置いてある電気ポットに水を入れてお湯を沸かす。
椅子に座って電気ポットの噴き出し口からもくもくと出てくる白い蒸気を眺める。
窓もドアも締め切った部屋はお湯を沸かす音以外は何も聞こえず、断続的に聞こえるお湯がこぽこぽと鳴る音は不思議と心を落ち着かせるものがあった。
「――元から落ち着いてはいるんだけどな」
天井まで上がっていく蒸気を見る。
一直線に上がっていった蒸気は天井にぶつかって広がる。しかしすぐに消えるように見えなくなってしまう。
「……ぶつかった気持ちは消えてしまう」
ひっそりと呟く。
そしてこの言葉は誰の耳にも入ることなく消えていく。
聞いている人がいなければそれはある意味何も言ってないのと変わりないのかもしれない。
誰かに聞こえて初めて――言葉というものが成り立つのではないか。
俺はそんなふうに考えてしまう。
「蒸気は消えてしまったらもうそこには何も残らない。けど……気持ちは消えてしまっても何処かに残っているかもしれない」
独り言というのは寂しいものだ。
誰も聞いてくれない。
誰も答えてくれない。
それでも人というものはポツリと言葉を落とすのだ。
それは寂しさを紛らわす為。
誰も聞いてくれなくても、答えてくれなくても、言葉を発するだけでその寂しさが薄れるのだ。
「俺は今――寂しいのか?」
答えてくれる声はもちろん無い。
代わりに電気ポットがお湯が沸けたということを伝えるためにカチッと音を鳴らした。
その音を聞いて、そういえばお湯を沸かすだけ沸かしておきながら何の準備もしていなかったということを思い出す。
自分だけだから手抜きでいいと思い、棚からインスタントコーヒーを取り出した。
小さなスプーン二杯くらいをマグカップに入れて沸騰したばかりのお湯を入れるとサッと溶けて透明なお湯がコーヒーの色に染まっていった。
ブラックのまま一口飲む。
「……味気ないな」
いかにもインスタントという味。
こんな素朴な味ではなく、雪原の淹れたコーヒーを味わいたいと無性に思ってしまう。
カーテンを閉めた薄暗いリビングのせいで自分の気持ちも暗くなっているのかと考え、俺はマグカップを持ったまま移動してカーテンを開け放った。
途端に射し込んでくる朝の光。眩しさに思わず目を細める。
淀んだ空気も入れ替えるために窓を開けると爽やかな風が舞い込んできた。
「うん……」
再びコーヒーを飲む。
一口目より美味しく感じられた。
「……おはよう、浅川くん」
「古宮か」
振り返る。
優しさの滲んだ柔らかい笑顔を浮かべた古宮が立っていた。
「インスタントで良ければコーヒー淹れるが飲むか?」
「……貰おうかな。ハルカ、朝ごはん……作ろうか?」
「いや、俺はいい。今日の朝はこのコーヒーだけで十分だ。食べたいなら勝手に作って食べていいぞ」
話しながら俺はコーヒーを淹れて古宮にカップを手渡す。
古宮はありがとうと言ってそれを受け取った。
「……浅川くん、食べないなら、ハルカも……いらない。お腹空いてるわけじゃ、ないし」
「そうか」
再び窓の外に向き直ると、俺の隣に古宮が並んだ。
しばらく無言のまま、お互いカップを傾けていた。
「……お昼頃で、いいかな?」
そう古宮が口を開いたのは手元のカップの中身が無くなった時のことだった。
その真剣な物言いに俺は一度古宮を見た。
「……」
「……」
古宮もこちらを見ていたらしく、視線が重なる。
目の光の揺れが何か色々なものを耐えているような気がした。
「なぁ、古宮」
だから俺は静かに首を横に振った。
そんなに苦しいのなら俺は早く古宮を解放してあげたかった。
覚悟を決めたのだとしても、躊躇いはあるのだ。
だから俺が背中を押す必要があった。
「今から行かないか?」
「……今から?」
古宮は驚きのあまりきょとんとしていた。
想定もしていなかった答えだったのだろう。
「この時間なら御桜丘は人が少ない。それに……今なら最高のクライマックスを迎えることができる――そんな気がするんだ。だから――今から御桜丘に行きたい」
「……」
古宮は肯定も否定もしない。
答える代わりに黙ったまま俺に背中を向けた。
そしてそのままリビングから出ていく。
ドアを閉める寸前に古宮は俺を見た。
その瞳は付いてきて欲しいと訴えかけているようで、俺は同じように目で分かった。と、答える。
「……ありがとう」
そう言い残して古宮はドアを閉めた。
すぐに玄関が開く音がして古宮は家から出ていった。
人が一人いなくなったリビングに不自然なほどの静寂が戻る。
「……何がありがとうなんだか……。とりあえず俺も行かないとな」
後で洗いやすくなるようにマグカップを水につけ、部屋の戸締まりを確認してから古宮の後を追って家を出た。
どこかふらふらすることもなく一直線に御桜丘に向かって足を進める。
手元のスマホはメッセージ画面を表示していて、白かった背景に黒い文字が打ち込まれていく。
送り先はもちろん結菜だった。
これから終わらせてくる――それだけ打った文を送って俺は画面を消した。
「さて……」
立ち止まって上を見上げる。
この階段を登れば後戻りはもうできない。
「無論――後戻りなんてするつもりは無いけどな」
古宮だってこの階段を登っていったんだ。
俺は一歩一歩踏みしめて階段を登っていく。
きっとこの先に彼女が待っている。
「……」
視界がパッと開けた。
階段を登りきり、目の前に景色が広がったからだ。
春は狂うように咲き乱れていた桜たちは今は皆、新緑を彩る葉桜に変わっている。
秋になるにつれて葉は散っていき、冬の訪れと共に悲しみを表すように寂しい姿になってしまう。だが冬の終わりには新たなる芽が芽吹き、春になると同時にまた咲き乱れる。
「――待っていたよ」
凛と――声が響いた。
秋の草むらで音を奏でる鈴虫のように透き通った声は、小さいながらもはっきりと俺にその場所を教えてくれた。
「……遥香」
彼女の名を呼ぶ。
苗字ではなく、名前で彼女のことを呼んだ。
小説の中の俺は古宮のことを遥香と呼んでいた。だからそうしたに過ぎない。
「……君を、待っていたよ」
御桜丘で一際大きい桜の木の下。
そこに背中を預けるように古宮は立っていた。
穏やかな風が吹く。
その優しい風はもう一度だけ、その言葉を運んできた。
「……君が、来るのを……待ってたよ」
風が俺の背中を押す。
前に進めと言うように優しく。
風の作る道を――古宮の元へと一直線に吹く風の道を俺は歩き進める。
やがて風はピタリとやんだ。
俺が古宮の前に立ったから役割が無くなったからだ。
「……来てくれて、嬉しいよ。もしかしたら、来てくれないんじゃないか――そう、思ってた。だから……本当に、良かった」
この言葉は俺に宛てた言葉なのか、小説の物語の俺に宛てた言葉なのか――。
いや、そんなことはどうだっていい。
古宮は必死に笑おうとしているが、無理をしている笑みだと俺は一瞬で気づいた。
「そんなことはしない。俺をなんだと思ってる」
けどそれを指摘してはいけない。
俺が今そんなことをしていい訳がない。
だから俺は笑う。古宮が笑うのならば俺も同じように笑う。
「それで……こんなところに呼び出してどうしたんだ?」
小説の中の俺はまだ告白されていなかった。
あの日の夜の告白だけが綺麗さっぱり消されていた。
だから今の俺はまだ告白されていないという設定になっているのだ。
「……うん。あのね――浅川くん」
古宮は落としていた視線を上げる。
「――!」
その瞬間古宮の後ろの桜の木が咲き誇ったように見えた。
それはもちろん幻だ。
古宮の瞳が、表情が、その行動の一つ一つが――幻の桜を咲かせ、俺を魅せている。
「……私は、あなたのことが――好きです」
そして桜と同じピンク色の唇がゆっくりと動き、言葉を紡いでいく。
「……初めて、浅川くんに、出会った日から……好きでした。一目惚れ、なんだよ? あの日、私は、君に恋をして、君を――想い続けた。この気持ちが、恋だって……初めて知った。そして、これが……私の初恋」
そうして古宮は見上げるように俺を見た。
潤んだ瞳が艶かしく、濡れたピンク色の唇が魅惑的。
気づけば俺は古宮遥香という少女から目を離せないでいた。
「……浅川くん。私と……付き合って、くれませんか?」
そしてついにこの時が来た。
ああ、胸が苦しい。万力で締め付けられているかのように痛くて苦しい。
普通なら飛び上がって喜びそうな場面。こんな可愛くて素直な女の子に告白されて嬉しくないわけがない。
「……ごめん」
でも俺が放つ言葉は否定のもの。
槍のように尖った言葉は古宮の胸を抉るように突き刺さる。
古宮の表情が歪んだ。
それでも俺は言葉を止めるわけにはいかない。
「俺は遥香とは付き合えない」
風が泣いているようだった。
咲き誇っていた桜もそれが幻だと証明するように消えるように散っていった。
後に残るのは本来の景色。葉桜が風に煽られ揺れていた。
「遥香のことは好きだ。けどそれは友達として好きってことで恋愛的な好きではない。それに俺には結衣がいる。あいつのことを差し置いて遥香と付き合うことはできない」
「……そっか、うん。そうだよね……」
こみ上げてくる悲しい思いを抑えきれず古宮は涙を零した。
「……分かっていたとはいえ、やっぱり、辛い……なぁ……あ、あぁ……」
両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちるように座り込む。
手と手の間から嗚咽の声が漏れていた。
見るに耐えない光景。
けど俺に目を逸らす権利があるわけがない。
俺には最後まで見届ける義務がある。
ここで目を逸らしてしまったら逃げてしまうこと変わらない。
「……失恋が、こんなにも……辛いなんて、思わなかった……! こんなにも、痛いものだなんて……思わなかった!!」
「遥香……!」
「……!?」
どうしてこんなことをしたのか分からない。
でも俺は気づいたら古宮のことを強く抱きしめていた。
「俺は……お前の書く小説が好きだ」
「……浅川……くん? なんで、今、そんなこと……」
「いいから聞いてくれ」
俺は古宮を抱きしめたまま語る。
今の俺に出来ることはこれくらいしか思いつかない。
そしてこれすらも意味のあることなのかは正直分からなかった。
でも俺はそれでも言うことに決めた。
「中学生の頃に初めて読んだ遥香の小説は正直言ってつまんなかった。あの時も言った通り難しかったからな。けど、昨日読んだあの小説は違っていた」
文の一つ一つが丁寧で、会話の一つ一つに感情が込められていて――読んでいる人の心を動かす。
「遥香の体験した感情や想いが文章を通じてしっかりと伝わってくる。初めて出会った時の胸の高鳴り、高校に入学して再会した時の嬉しさと悲しみ――。その全てが完璧なまでに文章で表現されている。本当にすげーよ。遥香には物語を書く才能がある。だから――遥香」
涙で滲んだ瞳を俺は見つめる。
「……浅川……くん」
揺れる瞳が俺を真っ直ぐに捉える。
その瞬間、俺と古宮の中で何かが繋がった気がした。
心が通じ合うような感覚。
今なら俺の言葉は古宮の心の奥に響いてくれる。そんな確信があった。
「俺は遥香のことを全力で応援する。だって俺は――」
一息置いて俺は微笑む。
この笑顔は古宮を安心させるため。
そして心の底から思っていることを真っ直ぐに古宮に伝えるためだ。
「俺は――遥香の書く小説が大好きだ。俺はお前の夢を応援し続けていたい」
伝えきった。
古宮は視線を地面に落とした。
「……ありがとう」
でもそれは一瞬のことで、そう呟いて古宮は顔を上げた。
桜の蕾がパッと花開くように――古宮は桜色の笑顔を俺に見せた。
「……ありがとう、浅川くん。あなたの、おかげで、ハルカは、ここまで……頑張れた。あなたが、ずっと、ずっと……応援、してくれたから」
そうして――自分の口から零れる言葉のひとつひとつが、その心が、相手の心に伝わりますようにと祈るみたいに、古宮は微笑み――
「……大好き、だったよ……浅川くん。だから、お願い――」
――最後の涙が頬を伝った。
「……きっと、誰よりも……幸せに。大切な、人と――結衣ちゃんと、幸せに、なってね、浅川くん」
吹き抜ける夏風が俺と古宮の頬を撫で、ひらひらと舞う蝶が空高くに舞い上がっていった。
古宮の瞳から頬を伝う涙はもう悲しいものではない。前に進むための一滴だった。
to be continued
心音です。こんばんは。
本当はあと一話やろうかと思っていたのですが、きりがいいのでここで締めちゃうことにしました。
遥香ルート如何でしたか?
個人的には夜乃ルートよりいい締めになったと思っています。
次回からはまた共通ルートに戻ります。
再びのんびりとした(?)な日常をお楽しみください。もちろんシリアスもあります←オマケか。




