第8話:孤高の暗殺者が来ました。無料の『空間燻蒸(バルサン)』および害虫駆除、誠に感謝いたします
「皆様、ごきげんよう。本日はダンジョン運営における永遠の課題、『害虫駆除』についてお話しさせていただきます」
私はプルプルと体を揺らしながら、画面越しに深くため息をついた。
管理モニターに映し出されているのは、『第10区画:宵闇の迷宮』である。
本来なら、美しい黒曜石の壁と静寂に包まれたシックな空間なのだが……現在、その壁には無数の「赤く光る小さな粒」がびっしりと張り付いていた。
「この赤い粒、お分かりでしょうか。これは『魔力ダニ』と呼ばれる害虫です。当ダンジョンの環境が良すぎるせいで大繁殖してしまい、迷宮の魔力(DP)をちゅうちゅうと吸い取っているのです」
『うわ、キモッ!』
『集合体恐怖症にはキツい画面』
『主のダンジョン、環境良すぎて虫まで湧くのかよw』
「ええ。早急に区画全体を『燻蒸』……いわゆる毒ガスによるバルサン処理をしたいのですが、この広大な迷宮を隅々まで満たすほどの毒ガスをシステムから購入すると、今月の利益がすべて吹き飛びます」
『また金(DP)の話してる……』
『自転車操業は続くよどこまでも』
「ああ、どこかに無料で、強力かつ広範囲に毒ガスを撒き散らしてくれる、都合の良い害虫駆除業者などいないものか……」
私がスライムの体をぺしゃんこにしてぼやいた、まさにその時だった。
音もなく、まるで影が滑るように、第10区画の入り口に一つの人影が現れた。
モニターに映ったのは、漆黒の装束に身を包み、顔の半分をマスクで隠した男。
エセルガルド・オンラインにおいて「対人戦(PvP)最強」と恐れられ、一切の痕跡を残さずにターゲットを仕留めるトップ暗殺者、『影縫いのジン』である。
『ジンきたあああ!』
『孤高の暗殺者!』
『レオンやシドみたいな派手な馬鹿とは違うぜ!』
『ジンなら罠にかかる前に、ダンジョンの核だけを暗殺できる!』
ジンの配信枠は、彼の中二病全開なダークヒーローっぷりを崇拝するリスナーたちで盛り上がっていた。
彼は黒曜石の迷宮を見渡し、マスク越しにくぐもった声で呟いた。
『……ふん。魔法使いや重戦士が全滅したと聞いて来てみれば、ただの薄暗い迷路か。俺の【隠密】スキルの前では、どんな罠もギミックも意味を成さない』
彼にシステムからの『オーディエンス・バフ(気配遮断・状態異常付与率極大アップ)』が付与される。
『見せてやるよ、リスナー共。俺の足音は死の足音。……誰にも見つからず、すべてを静寂のままに終わらせてやる』
ジンは両手に持った毒の短ダガーを構え、深く息を吸い込んだ。
『秘技――《絶死の猛毒霧》!!』
ジンがスキルを発動した瞬間、彼の体から「極めて致死性の高い、濃密な紫色の毒ガス」が爆発的に噴き出した。
それはただの毒ではない。バフによって威力が極大化されたその毒霧は、触れた生物のHPを秒間数千単位で削り取る、まさに『死の空間』を作り出す究極の暗殺スキルである。
紫色の毒ガスは、あっという間に第10区画全体に充満し、迷宮を隅々まで満たしていった。
『出た! ジンの最強スキル!』
『この濃度の毒霧の中じゃ、どんなモンスターも一瞬で溶ける!』
『しかもジン自身は「霧化」して同化してるから、絶対に攻撃されない!』
ジンの配信枠が「最強の暗殺戦術」に沸き立つ中。
私の配信枠もまた、狂喜乱舞に包まれていた。
「す、素晴らしい……っ!! なんという完璧な空間燻蒸でしょう!!」
私はモニターの前で、喜びのあまり体をトランポリンのように跳ねさせた。
「皆様、ご覧ください! ジンの放った毒ガスが、壁の隙間から天井の裏まで、完璧に行き渡っています! ああっ、魔力ダニたちがポロポロと死に絶えていく……! これほどの広範囲・高威力の燻蒸処理、自腹でやったら一体何百万DPかかったことか……!!」
『主が大歓喜してるww』
『業者頼んだらクソ高いバルサンを、無給で撒いてくれる暗殺者』
『ジン、お前はアサシンじゃない。ただの「害虫駆除業者」だ』
画面の中では、壁に張り付いていた魔力ダニが紫の煙に巻かれ、次々と絶命しては消滅していく。
迷宮の魔力流出(赤字)がピタリと止まり、私の口座は瞬く間に黒字へと転換した。
『……ふふ、どうだ。これでこの区画に潜む罠もモンスターも、すべて俺の毒で溶け去ったはずだ』
毒霧と同化し、姿を消したままのジンが、勝ち誇ったように呟く。
『俺は影。死を運ぶ紫煙。この霧の中にある限り、俺は無敵であり、誰にも見つけられな――』
「ズズズズズズズズズッ!!!!」
『……え?』
ジンのクールな呟きを遮るように、地響きのような「すさまじい吸引音」が迷宮に響き渡った。
「ああ、言い忘れておりました。皆様、この第10区画には、生態系の頂点として【暴食の真空蝦蟇】という巨大な魔獣を飼っておりまして」
迷宮の最深部。
保護色で黒曜石の壁と同化していた『全長30メートルの巨大なカエル』が、ゆっくりとその巨大な口を開けていた。
「この魔獣、実は『極めて毒性の高いガス』が大好物なのです。普段は餌代(毒ガス代)が高すぎて冬眠させていたのですが……ジン様が、最高級のフルコース(猛毒霧)を部屋いっぱいにご用意してくださったおかげで、絶好調で目を覚ましてしまいました」
『あっ』
『カエルが深呼吸してる……』
『まさか』
巨大カエルは、満漢全席を前にした食いしん坊のように、その特大の口で「紫色の毒霧」を猛烈な勢いで吸い込み始めた。
ズゴォォォォォォォォォォォッ!!!
ダイソンも真っ青の、圧倒的な吸引力。
部屋中に充満していた致死の毒霧が、凄まじい勢いで渦を巻きながら、巨大カエルの口の中へと吸い込まれていく。
『な、なんだこの吸引力は!? 待て、俺の毒霧が吸い尽くされていく!?』
ジンは焦った。
しかし、彼の本当の悲劇は「毒霧を吸われたこと」ではない。
彼は先ほど、自身のスキル効果によって【毒霧と同化(霧化)】していたのである。
『ま、待て! 俺の体は今、霧と同化して……いや、待て! 吸われる! 俺の体ごと吸われるぅぅぅぅっ!?』
「はい。霧と同化しているということは、霧が吸われれば、当然ジン様も一緒に吸い込まれるという物理法則ですね。非常に理にかなっています」
『ぎゃあああああああああっ!! ゴミみたいに吸われるぅぅぅぅ!! 俺は孤高の暗殺しゃぁぁぁぁ――』
スポンッ。
最後は、掃除機でホコリを吸い取った時のような小気味よい音を立てて。
ジンと紫色の毒霧は、巨大カエルの胃袋の中へと完全に収納された。
『空気清浄機に吸い込まれる暗殺者』
『害虫駆除のバルサン撒いたら、自分が掃除機で吸われた男』
『ジンの配信画面が真っ暗(カエルの胃袋)で草』
『またトッププレイヤーの尊厳が破壊された』
『このダンジョン、エサの持ち込み率高すぎない?』
第10区画は、ジンの完璧な燻蒸と、巨大カエルの完璧な換気(吸引)により、魔力ダニ一匹いない、チリ一つ落ちていないピカピカの空間へと生まれ変わった。
巨大カエルは「ゲップ」と一つ満足そうに鳴くと、再び黒曜石の壁と同化して冬眠に入った。
もちろん、カエルが吐き出したジンだったもの(ドロップアイテム)は、床に仕込まれた『自動搬送コンベア』へと吸い込まれ、カラカラと私の口座へ変換されていく。
「ふぅ……。ジン様、完璧な『害虫駆除および空間燻蒸』、誠にありがとうございました」
私は画面越しに、深く深くお辞儀をした。
「おかげさまで、当ダンジョンのセキュリティと衛生環境は最高の状態を取り戻しました。いやはや、一流の暗殺者は、清掃業者としても超一流ですね」
チャリン、チャリン、チャリン!!!
莫大なDPと、清潔で静寂な空間。
私はプルプルと心地よい弾力を味わいながら、宣言した。
「さて、皆様。害虫問題も解決し、資金も潤沢です。……次は、第11区画の『照明設備』にでも着手しましょうか。引き続き、当ダンジョンのエコな運営をよろしくお願いいたしますね」
今日もまた、エセルガルドの平和と、私の完璧なテラリウムは保たれたのである。




