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第五話「静かなる訪問者と小さな兆候」

第五話「静かなる訪問者と小さな兆候」

記録書記官としての屈辱的な日々は、季節が静かに移ろう中で数週間が過ぎた。重い竹簡を運び、埃っぽい書庫で一日中文字を追う生活。馬謖の身体は、不本意ながらもその過酷さに順応し始めていた。だが、それは表面的な慣れに過ぎない。心の奥底では、街亭での取り返しのつかない失敗、失墜した名誉への痛み、そして何よりも、あの処刑場で自らを襲った不可解な現象と、時折訪れる悪夢のような未来の断片――予知夢への言いようのない恐怖が、常に渦巻いていた。周囲の冷たい視線と完全な孤立は、彼の心を蝕み続け、監視の兵士の無言の圧力は、息苦しい現実を常に突きつけていた。


その日も、馬謖は南中の記録と格闘していた。作業に没頭している間だけは、思考の沼から逃れられる。しかし、ふとした瞬間に、またあの忌まわしい感覚が彼を捉えた。目の前の竹簡が歪み、現実とは異なるイメージが脳裏に流れ込む。――数日後であろうか、激しい雨が書庫の窓を叩いている。そして、どこからか迷い込んだ一匹の痩せた黒猫が、びしょ濡れで書庫の隅で鳴いている…。

「…またか…!」

馬謖はこめかみを押さえ、深く息をついた。不快感と同時に、また現実になるのだろうかという予感にも似た恐怖が襲う。無視しよう。考えまい。これは疲労が見せる幻だ。そう自分に言い聞かせ、彼は無理やり意識を作業へと戻した。


そんな午後のことだった。書庫の重い扉が、いつもと違う静かな音を立てて開いた。馬謖が反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは費禕であった。彼は、入口で見張っていた兵士に軽く目礼で合図を送ると(兵士は少し戸惑いつつもその場を動かなかったが)、穏やかな笑みをたたえて馬謖の机へと近づいてきた。

「馬謖殿、息災かな」

その声には、微塵の刺々しさもなかった。ただ、旧知に対するような、温かく、飾らない響きがあった。馬謖は慌てて立ち上がり、深く礼をした。

「費禕殿…! このような埃っぽいところに、わざわざ…」

「いやいや、堅苦しいことはよそう。丞相より、貴殿の様子を少し見てくるようにと仰せつかってな。まあ、座りたまえ」

費禕は優しくそれを制し、傍らの埃をかぶった丸椅子をこともなげに引き寄せて腰を下ろした。

「顔色がまだ優れぬようだが、無理はしておらぬか? ここの記録整理というのは、聞けば膨大な量だとか。地味だが、根気が要る、骨の折れる仕事であろうな」

「…お心遣い、痛み入ります。私は…ただ、与えられた務めを果たしているだけでございます」馬謖は俯きながら、かろうじてそう答えた。

費禕は、馬謖の憔悴した様子と、書庫の荒涼とした空気を静かに見渡した後、穏やかながらも芯のある声で語りかけた。

「丞相も、貴殿のことを常に案じておられる。あの時の御決断は、貴殿の類稀なる才を惜しみ、そして何より、貴殿がこの試練を必ずや乗り越え、再び国の柱となってくれると信じてのことだ。…あの処刑場での、尋常ならざる様子も、丞相は気にかけておいでだった。今はただ、心を安め、時を待つことだ」

費禕は、予言そのものには触れなかったが、馬謖の「異常さ」を孔明が認識していることを、それとなく示唆した。そして続けた。

「今は辛いだろう。周囲の目も冷たかろう。だがな、馬謖殿、人間万事塞翁が馬、という。この苦難が、いつか貴殿をより大きく成長させる糧となると、私は信じている。だから、決して心を折ってはならぬぞ。自分を見失ってはならぬ」


馬謖は、黙って費禕の言葉に耳を傾けていた。最初は、警戒心と卑屈さが邪魔をして、素直に受け止められなかった。しかし、費禕の曇りのない眼差し、その言葉の端々から滲み出る誠実さと温かさに触れているうちに、頑なに閉ざしていた心の扉が、軋みながらも少しずつ開いていくのを感じた。何週間ぶりだろうか、こんな風に人間として扱われ、未来を信じる言葉をかけてもらったのは。それは、乾ききった心に染み渡る、慈雨のようだった。孤独の淵にいた彼にとって、その存在はあまりにも大きい。目頭が熱くなり、視界が滲む。慌てて俯き、涙を堪えた。

(この方になら…あの恐ろしい夢のことを、話せるかもしれない…)

一瞬、強い衝動に駆られた。しかし、次の瞬間、恐怖がそれを打ち消した。もし話して、気味悪がられたら? やはり錯乱していると思われたら? この唯一の繋がりさえ失ってしまうかもしれない。結局、彼は唇を噛み締め、何も言い出すことはできなかった。


費禕は、そんな馬謖の葛藤を察したのか、それ以上は何も言わず、ただ静かに傍らにいてくれた。やがて、「長居をして仕事の邪魔をしてしまったな。また寄ろう。くれぐれも無理はせぬように」と言い残し、穏やかな足取りで書庫を後にした。


一人残された書庫に、再び静寂が戻った。しかし、以前とは違う、かすかな温もりの残滓が漂っている気がした。馬謖は、費禕が座っていた椅子をぼんやりと見つめながら、彼の言葉を反芻していた。(丞相も気にかけて…? この経験が糧に…? 私を信じて…?) 孤独な暗闇の中に、確かに小さな灯がともった。しかし、同時に費禕の言葉(尋常ならざる様子)は、彼に自身の「異常さ」を改めて突きつけてもいた。


そして、その予感は数日後に現実のものとなった。朝から降り始めた雨は、昼過ぎには激しさを増し、書庫の窓を激しく打ち付けた。馬謖が数日前に見た光景と寸分違わぬ情景。そして、どこから迷い込んできたのか、びしょ濡れの痩せた黒猫が、書庫の入口でミャアミャアと悲しげに鳴き始めたのだ。さらに翌日には、階段で足を滑らせたという管理役人が、足を引きずりながら現れた。

(…雨…猫…怪我…やはり…!)

馬謖は、作業の手を止め、その場で凍りついた。些細なことだ。しかし、偶然ではありえない。自分が見たものは、やはり未来の光景なのだ。幻覚でも、錯乱でもない。

その確信は、彼を戦慄させた。安堵など微塵もない。むしろ、「自分はやはり、普通ではないのだ」「この得体の知れない力は、本物なのだ」という事実が、冷たい刃のように彼の心を貫いた。

「なぜ…なぜ私なのだ…! この力は一体…!」

声にならない叫びが、胸の奥で木霊する。自分はどうなってしまうのか? この力をどうすればいいのか? 誰にも相談できない。費禕の温かい言葉を思い出した。しかし、こんな異常な自分を、あの人はどう思うだろう? 知られれば、きっと軽蔑されるに違いない…。

異能を抱える者の、絶対的な孤独感と、先の見えない恐怖。費禕が灯してくれたはずの小さな希望の光は、この冷徹な現実の前にはあまりにもか弱く、再び暗闇に飲み込まれそうになっていた。彼は、これからこの不可解な力と、そして自身の運命と、どう向き合っていけばいいのか、全く分からずに立ち尽くすしかなかった。

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