第六話「五丈原に星墜つ」
第六話「五丈原に星墜つ」
時は流れ、建興十二年(西暦234年)の秋。街亭の悪夢から六年という歳月が、馬謖を記録書記官という名の埃っぽい檻の中に閉じ込めていた。書庫の膨大な竹簡と木牘は、彼の知識を深め、現実というものの重みを教えたが、それは同時に、自身の過去の愚かさを繰り返し突きつける苦い学びでもあった。周囲の冷たい視線、監視の目、そして時折訪れる、未来の断片を垣間見せる不吉な「予知夢」。彼はその全てを、ただ耐え忍ぶしかなかった。
その秋、丞相・諸葛亮孔明は第五次北伐の途上、五丈原にて魏の司馬懿と対峙していた。天下の命運を賭けた決戦。漢中の丞相府にも、固唾を飲んで吉報を待つ空気が満ちていた。だが、届く報は次第に滞り、やがて重苦しい噂が囁かれ始めた。「丞相が、ご病気であるらしい」「いや、かなりお悪いと聞く…」府内の空気は、日ごとに鉛のように重くなっていった。
馬謖は、その噂が広まるずっと前から、胸騒ぎを覚えていた。ここ数ヶ月、彼の眠りは浅く、繰り返し見る悪夢にうなされていたのだ。――夜空に禍々しく輝く巨大な赤い星が、音もなく地に墜ちてくる。大地を揺るがし、巨大な楠が根こそぎ倒れる轟音。そして、夢の中にはいつも、生気を失い、影のようにやつれた孔明の姿が現れた。
(まさか…いや、そんなはずは…丞相に限って…!)
予知夢は、かつてないほど鮮明で、執拗だった。それはもはや単なる凶兆ではなく、避けられぬ運命の宣告のように、彼の心を締め付けた。何とかしなければ。丞相に、危険が迫っていると伝えなければ!
焦燥感に駆られた馬謖は、いてもたってもいられなかった。彼は監視の目を盗み、費禕の執務室へ向かおうとした。あの温厚な方になら、あるいは…。しかし、部屋の前まで来て、彼は足を止めた。何と言えばいい?「丞相の死を予感させる夢を見た」と? 気の触れた戯言と思われるのが関の山だ。いや、それ以上に、この得体の知れない力のことを、あの人に知られてはいけない。彼は踵を返し、書庫へ戻った。匿名で書状を書こうかとも考えた。しかし、誰が罪人同然の自分の言葉を信じるだろう。結局、彼にできることは何もなかった。ただ、壁に頭を打ち付けたいような、焦りと無力感だけが募っていった。
そして、秋風がことさらに冷たく感じられる日、運命の報せはもたらされた。五丈原からの急使が、蒼白な顔で丞相府に駆け込んできたのだ。広間に集められた蔣琬、費禕ら重臣たちの前で、使者は嗚咽を漏らしながら、震える声で告げた。
「ご報告、申し上げます! 丞相…諸葛亮孔明様…、昨夜半、五丈原の陣中に於いて、ついに…薨去、なされました…」
その言葉は、雷鳴のように府内を打ち、全ての音を奪い去った。時が止まったかのような静寂の後、堰を切ったような慟哭が広がった。天を仰ぎ、地に伏し、嘆き悲しむ声。蜀漢という国を、その一身で支えてきた巨星が、墜ちたのだ。
馬謖は、その報を、書庫の最も奥まった暗がりで聞いた。扉の隙間から漏れ聞こえてくる、役人たちのすすり泣きと、悲痛な囁き。彼は、手にしていた竹簡を取り落としたことにも気づかず、ただ呆然と立ち尽くしていた。涙は出なかった。声も出なかった。ただ、胸にぽっかりと巨大な穴が開いたような、絶対的な喪失感と虚無感が彼を襲った。
(…間に合わなかった…いや、何もできなかった…)
予知していた。知っていた。なのに、師であり、恩人であり、そして自分がその期待を無惨に裏切った、あの偉大な人の死を、ただ見ていることしかできなかった。その罪悪感が、鉛のように彼の心に沈み込んでいく。予知能力など、何の役にも立たない。それは絶望を予告するだけの、呪いでしかないのではないか。
数日が過ぎ、孔明の遺体は静かに成都へと運ばれた。国全体が深い悲しみに包まれる中、孔明の遺言が、後継者である蔣琬と費禕によって、府内の者たちに伝えられた。国の行く末、撤退の指示、そして…。
その日の夕暮れ、馬謖のいる書庫に、費禕が一人、静かに訪れた。その顔には、深い悲しみと疲労の色が浮かんでいたが、馬謖を見る目は以前と変わらず穏やかだった。
「馬謖殿…」費禕は、言葉を選びながら語り始めた。「丞相は、息を引き取られる間際まで、国のこと、そして…貴殿のことを気にかけておられた」
馬謖は、驚いて顔を上げた。
「丞相は、私にこう言い残された。『蔣琬、費禕を助け、北伐の夢を諦めるな』と。そして…」費禕は馬謖の目を真っ直ぐに見つめた。「『最大の敵は、常に己の心にある驕りである。それを決して忘れるな』と。…この言葉は、あるいは今の貴殿にこそ、託されたものかもしれぬ」
師の最後の言葉。それは、伝え聞いた馬謖の胸に、熱い塊となって込み上げてきた。自分の愚かさを、師は最後まで見通していた。そして、それでもなお、未来を託そうとしてくれたのか。
(最大の敵は、己の心…驕り…)
街亭での失敗の記憶が蘇る。そして、この得体の知れない予知能力。どちらも、自分の心を惑わせ、破滅へと導きかねないものだ。
費禕は、静かに立ち上がった。「今はただ、丞相のご冥福を祈ろう。そして、我々は前を向かねばならぬ。貴殿も…な」
そう言い残し、費禕は去っていった。
馬謖は、一人残された書庫で、窓の外に広がる茜色の空を見上げた。涙が、ようやく彼の頬を伝った。それは、師を失った悲しみの涙であり、何もできなかった自分への悔恨の涙であり、そして、託されたもののあまりの重さに震える涙だった。
丞相は死んだ。だが、その遺志は生きている。漢室再興の夢は、まだ終わらない。自分は生かされた。この不可解な力と共に。ならば、逃げることは許されない。この力を恐れるだけでなく、あるいは受け入れ、制御する道を探るべきか。いや、それよりもまず、師が最後に戒めた「己の驕り」と正面から向き合い、それを乗り越えなければならない。そして、この書庫で培った知識と、街亭での骨身に染みた教訓を糧として、一歩ずつでも前に進むこと。それが、亡き師への、そして自らの罪への、唯一の償いとなるはずだ。
孔明の死は、蜀漢に暗い影を落とした。しかし、馬謖にとっては、それは再生への道が、真の意味で始まる、重く、そして厳粛な夜明けとなったのである。




