表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/20

第四話「埃の中の格闘」

第四話「埃の中の格闘」

丞相・諸葛亮による裁定は下された。死罪は免れたものの、馬謖に与えられたのは「丞相府付き記録書記官」という、名ばかりの閑職と、常に監視の目が光る不自由な日々であった。裁定の翌日、彼は無言のまま部屋から引き出され、険しい表情の王平、あるいはその忠実な配下の兵士たちに前後を固められ、丞相府の奥深くへと連行された。


府内を行き交う役人たちの視線は、昨日にも増して冷ややかだった。処刑されなかったことへの不満、予言めいた言葉を発したことへの気味悪さ、そして単純な好奇心。それらが入り混じった囁き声が、彼の耳朶を打つ。「あれが…」「記録書記官にされたらしいぞ」「気味が悪い、近づかぬ方がよい」「丞相も何を考えておられるのやら…」。馬謖は俯き、唇を噛み締め、ただ一歩一歩、重い足を進めるしかなかった。


やがて一行がたどり着いたのは、府内でも特に古く、忘れ去られたような一角に立つ、大きな木の扉の前だった。扉が開かれると、長年蓄積されたであろう黴と古紙の匂い、そして濃密な埃がむせ返るように鼻をついた。内部は昼なお暗く、壁という壁、床という床に、おびただしい数の竹簡や木牘が乱雑に積み上げられている。まるで、時間の流れから取り残された、知識の墓場のようだった。


「ここが貴様の仕事場だ」

書庫の奥から現れた年配の管理役人は、値踏みするような冷たい目で馬謖を一瞥すると、事務的な口調で告げた。

「丞相付き記録書記官、馬謖。仕事は、この書庫にある記録の整理、分類、目録作成、必要に応じた筆写だ。丞相府の機密も含むゆえ、許可なき持ち出し、火気は厳禁。心得たな」

そして、書庫の最も奥まった、光もろくに届かない場所に置かれた、傷だらけの古い机と椅子を顎でしゃくった。

「席はあちらだ。まずは、そこの棚にある、南中に関する古い記録から整理してもらおうか。帰順した異民族の風俗、地理、過去の報告書などが混在している。内容を確認し、分類、目録を作成せよ」

それだけ言うと、管理役人はさっさと踵を返し、再び書庫の奥へと消えた。まるで厄介者を見るかのような、あからさまな拒絶の態度だった。


馬謖は、よろめくようにしてあてがわれた席に向かった。常に背後には、王平の配下であろう兵士が、壁際に音もなく立っている。その視線は、馬謖の一挙手一投足を見逃すまいと、鋭く注がれていた。息が詰まるような圧迫感。彼は、まるで檻に入れられた罪人のような心地だった。

(記録書記官…これが、今の私か…)

かつて丞相の側近くで天下を論じ、北伐の先鋒を夢見た自分が、今や埃まみれの書庫の片隅で、誰にも顧みられず、監視されながら、過去の記録を整理するだけの存在になった。そのあまりにも大きな落差が、彼の打ち砕かれた自尊心をさらに深く傷つけた。


彼は、震える手で、目の前の竹簡の束――南征に関する記録――に手を伸ばした。ずしりと重い。埃を払い、紐を解き、最初の竹簡を広げる。かすれた墨で記されているのは、異民族の風俗や、かつての反乱の記録、そして孔明による平定後の統治に関する報告などだ。一つ一つ内容を読み解き、分類し、目録に書き写していく。単調で、終わりが見えず、肉体的にも精神的にも苦痛な作業。時折、他の書記官が書庫に出入りするが、彼らは馬謖を透明人間のように扱い、視線すら合わせようとしない。完全な孤立が、彼の心を蝕んでいく。


思考を巡らせれば、後悔と屈辱、そして処刑場で体験した不可解な出来事への恐怖が蘇る。それを振り払うように、彼は目の前の作業に没頭しようとした。文字を追い、内容を理解し、分類する。その行為だけが、今の彼に残された唯一の現実逃避なのかもしれなかった。


どれほどの時間が経ったか。いくつかの竹簡を整理し終え、新たな束に手を伸ばした時、彼の目はある記述に釘付けになった。それは、南中のさらに奥地に住むという、ある少数部族に関する古い記録だった。その部族には、代々、神託を告げる巫女が存在し、祭りの際にトランス状態に陥り、時に未来を暗示するかのような、断片的で象徴的な言葉を発することがある、と記されていた。

「…神託…未来を暗示する…言葉…?」

その文字列を読んだ瞬間、処刑場で自分の口から迸り出た、あの支離滅裂な言葉が、鮮明に脳裏に蘇った。「五丈原に星墜つ…」「赤い崖…」「司馬…」「玉座の涙…」。自分の意思とは無関係に、まるで何かに憑かれたかのように発せられたあの言葉。あれも、この記録にあるような「神託」の一種だというのか?

馬謖は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。まさか。そんな馬鹿な。自分は巫女でもなければ、神がかりになった覚えもない。あれは極度の恐怖と混乱が見せた幻覚、錯乱に決まっている。

しかし、もし…もし、万が一、あれが単なる錯乱ではなかったとしたら? 自分は一体、何者になってしまったのだ? 何か得体の知れない力に操られているのか? あるいは、自分自身が狂ってしまったのか? この力は、自分に、そして蜀に、何をもたらすというのか? 災いか、それとも…?

答えの出ない問いが、次々と湧き上がり、彼の心を深い混乱と恐怖の淵へと突き落とした。

彼は、震える手でその竹簡を閉じ、乱暴に机の上に置いた。そして、ぜえぜえと荒い息をつきながら、頭を抱えた。監視の兵士が、訝しげな視線を向けているのが分かったが、気にする余裕はなかった。

埃と古文書に埋もれたこの書庫は、単なる左遷先ではなかったのかもしれない。ここは、彼が自身の罪と向き合い、そして同時に、己の内なる不可解な「何か」とも対峙しなければならない、長く暗い試練の場の始まりだったのだ。その重い現実に気づき、馬謖は深い絶望と共に、再び固く目を閉じるしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ