嘘と裏切りと涙。
【執務室・魔人族との2度目の会談】
「おやおや……君が匠君だね?」
その声は、執務室の空気を凍らせるほど冷酷で、下品な好奇心に満ちていた。
薄気味悪い魔法陣から、ゆっくりと這い出すように現れた一人の男が立っていた。
伯爵のような燕尾服を纏ってはいるが、その青白い肌と額の小角が、不気味さを一層際立たせている。
「……ああ、俺が匠だ。悪魔がポンコツ剣士に何の用だよ」
匠は自分を奮い立たせ、震える声を抑えながら反論した。
しかし、その声はアビルゲイの冷ややかな視線の前では、まるで無力な羽虫の羽音のようだった。
「ククク、調略にその身を捧げるとは、運の悪い男だな。君のその『無力さ』が、勇者を動かす最高の道具になるとも知らずに」
アビルゲイは匠に近づき、顔を覗き込むようにして嘲笑した。その瞳は、獲物を前にした獣のようであり、同時に、最高の玩具を見つけた子供のようでもあった。
「……おい、お前ら勝手に進めるな! 何を企んでいる!」
静まり返った国王執務室に、匠の悲痛な叫びが響き渡る。だが、彼の両脇を固める近衛騎士たちはピクリとも動かず、ミラード王は一瞥すらしない。完全に手遅れだった。
「アビルゲイ、それでは後は頼んだぞ」
「ククク、――レオン様はさぞ、お悦びになることでしょう」
あろうことか、ミラードはその場を立ち去ってゆく。その際に見せた表情はすべて予定通りに運んだという満足感から、嫌らしく口角を上げた、醜く歪んだ笑みだった。
(これで終わりなのか、嘘だろ)
絶望に視界が歪むなか、匠は縋るように、目の前に立つ最愛の幼馴染の背中を見つめた。
「華奈……! 頼む、お前から何か言ってくれよ……! なんで俺が、魔人族なんかに――」
ゆっくりと、華奈の身体が振り返る。
しかし、その瞳を見た瞬間、匠は息を吸うことすら忘れた。
そこにあったのは、いつも自分に向けてくれていた向日葵のような笑顔ではない。凍てつく氷河のように冷徹で、一切の感情が抜け落ちた、見知らぬ「強者」の眼差しだった。
「……五月蝿いな、タクちゃん。少し静かにしててよ」
「え……?」
鼓膜を叩いたのは、信じられないほどに冷ややかな、突き放すような声。
「これが一番合理的。……正直、私も丁度いいと思ってたんだよね。足手まといの面倒を見続けるの、疲れてたから」
「あ、足手まとい……? 華奈、お前……何を言って――」
「文字通りの意味だよ」
華奈はふっと、哀れむように口元を歪めてみせた。
「《《匠》》《《君》》とは、もうこれっきりにしたいの」
「――っ、えっ、どういうことだよ突然! そんないい方しなくても――俺は……」
振り返った華奈からの突然の別れ話。青天の霹靂なんていう言葉じゃ到底足りない。
「嘘じゃないよ、アレは甘酸っぱい青春だったの。この世界でいい思いをしたければ、切り捨てるしかないのよ」
世界が静止したかのように、匠の思考が止まる。つい昨日まで、お互いボロボロになりながら『一緒に強くなろう』と笑い合っていたあの笑顔は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
だが華奈は、近衛騎士の制服を誇るように撫でながら薄く笑った。
その眩い白銀の刺繍は、立ち尽くす匠の薄汚れた服を、これ以上ないほど惨めに引き立てていた。
「華奈……お前、そんな奴だったのか……! ――嘘だ!嘘だと言ってくれ!」
「私は勇者で、貴方は底辺のレベル1。それが現実なの」
一歩、また一歩と遠ざかる華奈の背中。その足取りは、まるで処刑台へ向かう罪人のように重かったが、匠の耳に届く声だけは、どこまでも高く、傲慢に響き渡っていた。
「騎士団長の息子さんとの婚約も決まったし、これからは私の人生を楽しむわ。だからもう関わらないで」
(……今、何て言った?)
「俺を捨てるのか、華奈!」
華奈の胸の奥は、今にも狂って張り裂けそうだった。
今すぐその泣き出しそうな顔をした匠を抱きしめて、ごめんね、嘘だよ、大好きだよ、と叫びたかった。
背後の悪魔をアダマンタイトの剣で細切れにして、彼の手を引いて逃げ出したかった。
けれど、できない。昨日、あの窓を突き破ってきた暗殺の太矢が、この伏魔殿の狂気が、確実に匠の命を狙っている。ここにいれば、彼は近いうちに確実に殺される。
(憎んで。お願いだから、私を激しく呪って、タクちゃん……! 憎悪を燃え上がらせて過酷な魔界を、生き延びて……!!)
爪が手のひらに深く食い込み、肉を破って血が滲む。その痛みに耐えながら、華奈は完璧な「悪女」の仮面を張り付かせ、さらに言葉の刃を突き刺した。
「今まで幼馴染の情だけで付き合ってあげてたけど、もう限界」
「……っ、華奈……!!」
――頭が真っ白になった。
足手まとい?
もうこれっきり……?
捨てられた……?
悲しみは一瞬で消し飛び、それを塗りつぶすように、ドロドロとした『絶望』と『激しい憎悪』が匠の心の中で燃え上がった。
「貴方が私に言ったのよ、『お前が王の信任を得る方が先だよ』ってね。だから王族側に付いただけなの」
「俺は、俺はそんな意味で言ったわけじゃない……!!」
完全に、二人の絆が断絶した。匠の拳が、血が出るほど強く握り締められ、ガタガタと怒りに震えている。
「お前を……絶対に許さない。俺を売った王も、そのニヤニヤ笑ってる悪魔も、……お前も、全員だ……!!」
魂を削るような匠の呪詛。それを聞きながら、華奈の心は奇妙な救済感に満たされていた。
(それでいい――)
生きて。たとえ私を憎んでも――。
その復讐心だけで、地獄の底からでも這い上がってこられるはずだから。
「ククク、実に醜悪で、実に素晴らしい愛憎劇だ。これだから人間は面白い」
別れ話に虚偽が含まれている事を見抜くアビルゲイは、震える二人の心を覗き見して、ゾクゾクとするほど甘美な愛憎劇に歓喜の声を上げる。
「さて別れを惜しむ時間は終わりだ。レオン様が待つ居城に戻ろうではないか」
アビルゲイの言葉が合図になり、両脇の騎士たちが、匠の身体を無理やり引きずり、転移魔法陣へと向かう。
「離せっ! クソッ……、華奈ァァァ――!!」
背後から響く、憎悪に満ちた最愛の人の絶叫。華奈は、一度として振り返らなかった。ただ、感情の消えた瞳で前を睨みつけたまま、静かに涙を流すことも許されない虚無の空間の中で、彼女は自身の「偽りの裏切り」を完遂したのだった。
「――匠殿、これを持っていってくれないか」
魔法陣へと引きずられていく匠の前に、ウィラードが静かに進み出た。
その手に握られていたのは、仕立てのいい袋に入れられた二振りの剣。無言で差し出されたそれを見詰めるウィラードの表情は、鉄のように重く、如何ともしがたい苦渋に満ちていた。
「――ッ」
哀れみの餞別など反吐が出る。
そう思って激しく跳ね除けようとした匠だったが、ウィラードの苦悩に歪む瞳を見た瞬間、その動きがピタリと止まった。
『王の命令は絶対であり、私情を挟めない』
無骨な騎士の顔に刻まれたその無言のメッセージを、匠の鋭い『眼』は正確に読み取ったのだ。
――匠は押し黙ったまま、静かにその二振りの剣へ手を置いた。
「……ありがとうは言わない」
「ああ、それでいい。だが――すまん」
匠は黙って二振りの剣を抱えた。
もう、この国に未練はなかった。
――転移魔法陣が静かに輝き始める。




