停戦交渉。
【執務室・魔人族との会談】
静寂に支配された謁見室、その中心で、突如として空間がガラスのようにひび割れ、どろりとした負の魔力が溢れ出した。
「おお、これが魔人族の転移魔法か……!」
護衛の1人として召集されていた魔法士パパ・ヤーガは、その禍々しい光景を目の当たりにして、恐怖よりもむしろ歓喜に身を震わせる。
やがて歪みの中心から現れたのは、仕立ての良い黒い燕尾服に身を包んだ、伯爵然とした男だった。
七魔神が一人――策略の悪魔、フォルカス。
無駄な殺生を嫌うが、言葉と言葉の応酬、そして盤面の操作だけで国を滅ぼすことを至上の愉悦とする参謀。
死人のように青白い肌と、額から覗く二本の小角が、彼が人ならざる者であることを不気味に強調していた。
「ミラード陛下、お初にお目にかかります。七魔神の一人、フォルカスと申します。以後お見知り置きを」
「よくぞ参られた、フォルカス殿。……では、早速本題に入ろう」
ミラード王は、自身の喉元に突きつけられた「魔王軍の脅威」を逸らすべく、必死に平静を装って声をかけた。
だが、対峙する魔人族の使者は、超高レベルの勇者を召喚したフィルモア王国に対し、嘲笑を孕んだ冷酷な事実を突きつける。
「……白々しい。我が魔王様に匹敵する『バケモノ』を召喚しておきながら、休戦協定など笑止千万」
「滅相もない。あれはあくまで偶然の産物……。我が国に魔王領を侵略する意図など毛頭ない」
ミラードは、この場に「嘘を見抜く悪魔」アビルゲイが不在であることをこれ幸いと、薄っぺらな嘘を重ねる。
だが、召喚された華奈のステータス――リミットブレイクを大きく超えた「698」という数値は、すでにプラウラーの報告によって魔人族側に周知されている。彼女はすでに、一国を左右する「戦略兵器」として扱われているのだ。
「これは明らかな軍拡であり、宣戦布告と受け取られても文句は言えまい?」
たった一人とはいえ、戦術核兵器並みの破壊力を持つ存在を抱え込まれれば、魔人族側がそう警戒するのは当然の帰結。何か手を打たなければ、交渉は決裂するのは確実。
「それは早計というもの。我が軍そのものを増強したわけではない」
「笑止。我が魔王軍は、貴殿らの腹一つで、いつでも戦端を開く用意があるぞ」
フォルカスの細い指が、チェス盤を弾くように机をトントンと叩く。このままでは協定は破棄され、王国は再び戦火に包まれる――。
その絶望的な沈黙を破り、ミラード王は、もはや人間としての誇りすら捨て去った、卑劣な「交渉材料」を口にした。
「フォルカス殿……。もし、貴殿らがその『バケモノ』を御せぬと案じているのなら――勇者の『最愛の男』をそちらに譲渡しよう」
「……何だと?」
策略の悪魔ですら、王のあまりに醜悪な提案に、その深紅の瞳を見張った。
ミラードは自身の「名案」に酔いしれるように、脂ぎった顔に傲慢な笑みを浮かべて続けた。
「匠という男は、勇者・華奈と相思相愛。それこそが奴の唯一の弱点だ。貴殿らが人質に取れば、無駄な戦いは避けられる」
自国の勇者を制御するために、魔人族側にその恋人を差し出す。
同盟という名の隷属。平和という名の売国。
あまりに身勝手で、あまりに冷酷な王の提案に、フォルカスは喉の奥からくぐもった笑い声を漏らした。
「……ふ、ふふふ……面白い。人間というのは、時に我ら悪魔族よりもよほど悪魔らしいことを考える。……実に、実に愉快だ」
フォルカスは、まるで汚物を見るような、それでいて最高の玩具を見つけたような目を王に向けた。
「この提案全書して頂けたら助かる」
「……しばし待たれよ。主と相談してくる。その間に、その匠とやらをこちらへ連れて参れ。この目で見定めさせてもらおう」
そう言い残すと、フォルカスは黒い霧と共に、嘲笑の残響を残して姿を消した。
後に残されたのは、己の欲望のため一人の少年を魔界へ売った、歪な悦びに浸る王の姿だけだった。
【魔王城・玉座の間】
フィルモア王城から帰還したフォルカスの報告を、玉座の魔王レオンは静かに聞いていた。
「――それでアビル、奴の本心はいかほどだ」
魔王の命を受け、フォルカスの影から這い出るようにして姿を現したのは、もう一人の悪魔。
「嘘を見抜く悪魔」アビルゲイ。
彼はミラード王の調略の真偽を見抜くため、フォルカスの影に潜んで同席していたのだ。護衛のヤーガすら、その存在には全く気づけなかったらしい。
「ククク……人間の王というのは、本当に底が浅い」
アビルゲイはしたり顔で笑う。ミラードは大層な嘘つきだが、勇者・華奈の男を手放すことに関しては、一切の欺瞞なく極めて前向きだったと語る。
「……女勇者を傀儡にするつもりか。人間の欲と傲慢さは、いつの時代も変わらんな。匠、か……」
魔王はアビルゲイの言葉に短く応じながら、自身の記憶の底にある、ある光景を思い出していた。
それは、魔王ですら決して逆らうことのできない、この世界の頂点――絶対神『サーペント』に拝謁した時のことだ。
【サーペントとの謁見(回想)】
前回の大敗後、納得のいかない魔王は、祭壇に向かって毎日欠かさず、呪詛のように恨み節を囁き続けていた。
それに痺れを切らしたサーペントが、ついに魔王城に姿を現したのだ。
「あの作戦は、安直で馬鹿なお前だから負けたのだ!相手は狡賢いミラードだ。もう少し頭を使え」
「――ッ御意……」
配下がいくら説明しても頑なに非を認めなかった魔王だが、サーペントに直言されると、素直に首を垂れるしかなかった。
「ところでレオン、人間界にリミットブレイクを遥かに超える力を持つ者が現れた。アングィスの機転で今はまだ覚醒していないがね」
要するに、匠のことだ。あまりに危険すぎると判断したアングィスが、事前に能力に制限をかけたのだ。ちなみに華奈の方は、まあ常識の範囲に収まるレベルなので放置したらしい。
「それで、私目にどうしろと?」
「簡単なことよ。調略して魔人族側に引き入れよ。そうでなければ世界のバランスが崩れ、いずれ人間らにお前たちが蹂躙されるぞ」
サーペントは華奈の存在にも触れつつ、「要はバランスを取り、無駄な戦をやめさせろ」と釘を刺した。
「それでは失礼するよ。もう呼ぶなよ。ああ、名は『匠』だ」
サーペントはそう言い残すと、光の粒子となって姿を消した。
【魔王城・玉座の間】
「強欲は身を滅ぼす。その少年を、こちら側に丁重に迎えなさい」
「御意」
魔王の脳裏に、不穏な、だが確信に満ちた予感がよぎる。
人間たちが自らの破滅を招く引き金を引こうとしていることに、魔王城の面々は冷酷な笑みを浮かべるのだった。
【謁見の間】
「よくぞ参ってくれたな華奈。悪魔どもが暴れたら頼むぞ」
「承知いたしました。何があろうとも陛下をお守りいたします」
仕切り直された会談の場に入ってきた華奈は、真新しい近衛騎士団の儀礼服を身に纏い、凛とした構えで国王に挨拶をする。
一方の匠は、後方の扉の前で、従者のような格好をして静かに、それでいて不安な面持ちで成り行きを見守っていた。
それもその筈、華奈と顔合わせが出来たのは執務室に入る直前で、いまだ一言も会話を交わしていなかったのだ。
「匠、こちらへ。君とは初顔合わせだな」
突如、自分の名を呼ばれ、匠は思わずピクリと身体を震わせた。事前に「声が掛かることはない」と聞かされていたため、尚更だった。
「ミラード陛下、お初にお目にかかります。匠と申します」
それでも自分を奮い立たせ、膝をついて挨拶をする。だが、ミラード王の目は笑うどころか、獲物を狙う獣のように鋭い。周囲の重臣たちを伺えば、これから始まる企みを前に、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
(間違いない……俺を交渉の道具に使うつもりだ)
せめて華奈だけは助かってくれ、と縋るような思いで視線を送るが、彼女は凍りつくような冷たい表情のまま、頑なに目を合わせようとはしない。
そこには情も未練もなく、ただ任務だけを遂行する勇者の顔しかなかった。
となれば、ここにいる連中は自分以外の全員が「この先の展開」を知っているということだ――。
絶望が脳裏をよぎる中、再び空間がガラスのようにひび割れ、どろりとした負の魔力と共に、一人の男が姿を現した。




